19:協力者
バスを降りたふうはカフェ・アンダンテの前に立っていた。
そこは、周囲に立ち並ぶマンションや木々の影に覆われて、相変わらず涼し気だった。
カバンからスマホを取り出して現在時刻を確認してみる。
表示されていた数字は十六。
思っていたよりも病院の待ち時間が短く、由美が事前に教えてくれた空いている時間帯よりも早く着いてしまった。
(どうしよう…)
中を覗いてみて、人が少なかったら入ろうかな。
ふうはそう考えながら、カウンターにいるであろう由美に気づかれないように、窓から中の様子を確認した。
(ちょうど人がいなさそう)
ふうは胸を撫で下ろした。
自宅とカフェを経由するバスの本数はそこまで多くはない。
もし、カフェに立ち寄らないならば歩いて帰らなくてはいけなかった。
その選択から逃れられたことに安堵し、ふうはゆっくりとドアを開けた。
「いらっしゃいませ。あ、片倉さん!」
ぱっと顔を上げた由美の表情が和らぐ。
歓喜に満ちた声色で名前を呼ばれ、ふうは照れくさくなり、目線を泳がせてしまった。
「今、邪魔じゃないですか…?」
「もちろんです。どうぞ、入ってください」
ドアノブを掴んだままのふうを迎え入れるかのように、由美は歩み寄ってきた。
そして、代わりにドアを支えると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「ご注文はどうしますか? アイスコーヒー?」
「はい。あ、クーポン…」
ふうはカバンの中から財布を取り出すと、札入れに折りたたんでしまっていたクーポンを取り出した。
コーヒー半額。そんな文言が書かれている一枚を指先で切り取り、由美に渡した。
「かしこまりました。お席まで運びますので、少々お待ちください」
由美の言葉に頷きを返し、ふうは一番奥にある席に向かって歩き始めた。
そんな彼女の横顔を、ガラスのモビールがチカチカと照らす。
帽子を外すと、考えすぎて熱くなった頭から少しずつ熱が逃げ出し始めていくのを感じた。
ソファ席に腰を下ろすと、僅かに軋む音がした。
けれど、大して気に留めずに、脱力しながら背中を預ける。
そのまま瞼を閉じると、由美がコーヒーを淹れる音が聞こえてきた。
(ここって…音楽流してないよなぁ)
初めて来た時から、カフェ・アンダンテはずっと静寂を保ち続けている。
賑わっている時間帯は、どんな雰囲気なんだろうか、とふうは想像した。
(…夏の海みたいな感じなのかな)
ふふ、とふうは笑った。
そして、バース性が目覚める前に両親に連れて行ってもらった夏の旅行を思い出した。
砂浜に溢れかえる人。海に浮かぶ浮き輪やボール。海の家から漂ってくるソースの香り。
思い出があらゆる五感を刺激する。
(焼きそば食べたい)
急に思い立ち、ふうはカバンからスマホを取り出した。
そして、翔真にメッセージを送った。
『焼きそばが食べたいです』
その文章に追記する。
『あと、ちょっと真剣な話がしたいです』
それはもちろん、新薬の被験者のことだった。
たった二行のメッセージを送ってから、ふうは思わず小首を傾げた。
(これ、別れ話とかに思われたりするのかな?)
翔真が初めての恋人で、別れ話をしたことがないふうにはよくわからなかった。
ただ、なんとなく深刻な印象を与えてしまったかのように感じた。
長い付き合いだし大丈夫だろう、とスマホをカバンに放り投げると病院でもらった紙を取り出した。
そして、テーブルに置いて、上から順にまじまじと読み始めた。
「今日はどこかにお出かけされてたんですか?」
アイスコーヒーをテーブルに置きながら、由美が尋ねてきた。
「抑制剤を貰いに病院に行きました」
「もしかして、バスで少し行った先にある総合病院ですか?」
「はい」
「やっぱり、ここらへんではあそこしか対応してないですよね。櫂もお世話になってます」
にこやかに会話を交わしていた由美の表情が不意に変わる。
白い紙に黒い文字が並んでいるだけのシンプルなそれは、堅苦しい雰囲気で彼女を虜にしていた。
ふうは苦笑いを浮かべると、由美が見やすいように紙をくるりと回転させた。
「新しい抑制剤を開発しているそうです」
「…見てもいいですか?」
「はい」
由美は向かいの席に座ると、エプロンで水滴を拭ってから恭しく紙を持ち上げた。
そして、じっくりと活字を追いかけ始める。
そんな光景を目の前に、ふうは運ばれてきたアイスコーヒーに手をつけた。
敷き詰められた氷はグラスが揺れるたびに高い音を響かせ、ストローで吸い上げられた黒い液体がふうの体温を下げていった。
「対象年齢は十八歳以上か…」
最後まで読み終わったらしく、由美は険しい表情でポツリと呟いた。
それにふうが視線を向けると、彼女は慌てて笑みを作った。
「あ、ごめんなさい、急に。櫂だったら…参加したがったかもしれないって思って…」
ふうは思わず瞬きを繰り返した。
「被験者ってちょっと怖くないですか?」
「そうですね。親としても不安です。でも、またサッカーができるようになるなら…あの子はきっと…」
ふうから見た櫂は年齢に似合わず達観していた。
子どもながらに、理不尽な現実を受け入れているようにも思えた。
しかし、それはただの虚栄で、長く熱心に続けてきたものを無感情に手放せるほど、諦められてないのだと由美越しに知った。
「片倉さんは受けるつもりなんですか?」
由美が不安げな眼差しを向けてきた。
ふうは無意識にグラスに触れていた指先に力を込めた。
「はい」
まだ翔真を説得できていない。
それでも、ふうの気持ちは決まっていた。
「そうですか…」
由美は次の言葉を選びあぐね、口をもごもごとさせた。
社会に貢献できる立派な心持ちだと思う。
けれど、どうしたって副作用という言葉がちらついてしまう。
由美は、ふうを上目遣いに確認した。
太陽の光を知らないような肌に、細くて柔らかい髪。小柄な背丈に、華奢な腕。
そんな儚げな容姿に似合わない硬い表情と言葉遣い。
由美は、ふうが笑っているのをあまり見たことがなかった。
(まだ、出会ってから間もないっていうのもあるけど…)
それでも、彼女の立ち振る舞いがこれまで歩んできた人生が優しいものではなかったということを教えてくれる。
同時に、恋人の隣で安心しきったように口角を上げる姿も知っていた。
「片倉さんがそんな苦労をしなくてもいいんじゃないんですか…?」
ふうの行動を肯定しようとしていたのに、由美は気がつくとそんな言葉を発していた。
そんな自分自身に驚き、思わず口元を手で覆い隠す。
けれど、一度発した言葉をなかったことにできるはずもなく、ふうは目を丸くしていた。
「ごめんなさい。すごく良い志だと思うんですが…片倉さんに何かあったらと思うと…」
由美は声を震わせ、だんだんと顔を俯かせた。
ふうは、由美の気持ちを嬉しく思いながらも、どう返そうかとしばし思案した。
「私…本当に欲しいものには、自分から手を伸ばさなきゃいけないって知ってます」
由美は弾かれたように顔を上げた。
すると、予想に反して、頬を赤くして、照れくさそうにするふうの姿が視界に映った。
「……翔真がそうでしたから」
「え?」
「私からたくさん話しかけて、やっと付き合えたんです」
「ええっ!」
由美はつい大きな声を上げ、前のめりになってしまった。
二人の馴れ初めを聞いたのは今が初めてだが、勝手に翔真が頑張ったのだと思い込んでいたからだ。
慣れている反応なのか、ふうは目を細めて小さな声で笑った。
「翔真とちゃんと話し合いはします。反対されるかもしれないけど、私は…翔真と生きていきたいから、折れません」
でも、とふうは言葉を繋げた。
「被験者って言葉はやっぱりちょっと怖いですね」
由美は溢れてくる色んな感情を押さえることができず、勢いよくふうの手に触れた。
彼女の力になりたい、と本能的に思った。
「北野さんがいない時に体調を崩したりしたら、いつでも連絡してください。車も持ってますし、運転もできます」
重なった由美の手はカサカサと荒れていた。
飲食店を経営しているから、水や洗剤に触れる機会が多いのだろう。
それは、そのまま、彼女の生き様に感じた。
(こんなに忙しい人に甘えてしまってもいいのかな)
ふうの脳裏にそんな疑問が浮かんだ。
しかし、由美の力強い眼差しから目をそらすことはできなかった。
おそらく、翔真と重なる部分があったから。
「これは櫂のためにもなることです」
そう言われてしまえば断る理由もなくなり、ふうは由美の手を握り返した。
「よろしくお願いします」
ふうの柔らかな笑みに、由美は思わず見惚れてしまった。




