18:被験者募集
エンジン音を響かせて、バスが走り出す。
平日の昼間。ほとんどの席が空いているバスの中で、ふうは窓に寄りかかるようにして外を眺めていた。
九月になり、日差しはだいぶ弱まったものの、深々と被った帽子で彼女の目元には影ができていた。
つい先週、ヒートを迎え、そして乗り越えた。
翔真がちょうど休日で、抑制剤をきちんと飲めたこともあり、大きな騒動は起きなかった。
また、前回現れたアルファの男子生徒の姿を見かけることはなく、二人の引っ越し計画は延期になった。
(あ、アンダンテだ)
後ろへと流れていく景色の中で、その店の輪郭だけがやけにはっきりと見えた。
頭の隅で意識していたからかもしれない。
これから向かう総合病院で抑制剤をもらった帰りに寄ろう、とふうは心に決めていた。
(今回はどのぐらい待つのかな…)
ふうは思わず眉間にシワを寄せて、ため息をついた。
総合病院は、色んな診療科が集まっていて、多くの人が訪れる。
そのため、事前に予約していようがいなかろうが、待たされることが多い。
過去には半日潰れたこともあったが、その時は翔真も一緒だったため、途中で心が折れることもなく待ち続けることができた。
しかし、今日は一人だ。
時間潰しにと文庫本をカバンに入れたり、スマホの充電を満杯にしてきたが、どうなるかは予測がつかない。
長時間待たされて、待合室で途方に暮れる。
そんなビジョンが頭に浮かび、ふうは更に憂鬱になった。
(薬だけポンっとくれたらいいのに)
ふうはそう思うも、法律が許してくれず、必ず問診を通さなくてはいけない。
いつも同じ受け答えをして、同じ薬をもらっているのにもどかしい。
道路に横たわる木々の影を睨みつけるように、ふうは目を細めた。
バスに揺られること四十分。
静かな住宅街の真ん中にその建物は立っていた。
バスを降りたふうは、建物を取り囲むように設置してある駐車場を眺めた。
ポツポツと車が止まっているけれど、そこまで混んでいるようには見えない。
(もしかして、空いてる?)
そんな希望を胸に、ふうは大きな自動ドアをくぐり抜けた。
途端、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
夏も冬も一定の温度に保たれた病院の空気は、九月の外気と比べると幾分か冷たかった。
ふうは帽子を取ると、総合待合室の混み具合を横目で観察しながら、受付に向かった。
案の定、今日は空いている日だったらしく、持ってきた文庫本の第一章をちょうど読み終えたタイミングで、ふうは呼ばれた。
出迎えたのは、いつも担当してくれている初老の先生だった。
「あー、あなたね」
「お久しぶりです。抑制剤がなくなったので、もらいに来ました」
ふうが早々に用件を伝えると、先生はすっと通った鼻筋に引っかけているべっ甲柄の眼鏡を持ち上げた。
レンズ越しに見える顔の輪郭と瞳が歪んでいる。
かなり度の強い眼鏡だということが、確認しなくてもわかった。
先生は机に乗っているマウスをカチカチと操作すると、電子カルテに視線を注いだ。
そして、記憶を掘り起こすようにじっくりと見つめた後、振り返った。
「あれ、今日は付き添いはいないのかな?」
「はい。仕事です」
いつも付き添っている翔真を不意に思い出した。
まさにそんな素振りの先生に、ふうは淡々と首を縦に振った。
「そうなの」
しかし、聞いた張本人は、さして興味がなさそうに頷きを返しただけだった。
「では、問診を始めますね」
先生は椅子をくるりと回転させると、ふうと向き合った。
それと同時に彼の左手の薬指にはめられたシルバーリングが、天井から振り注ぐ光を反射させて鈍く輝いた。
彼はアルファとして生きてきた先生だ。
それでも、番のいないオメガであるふうを診ることができるのは、既に番関係にあるパートナーがいるから。
それは病院側の配慮だった。
「薬を飲んでいて体調を崩したりとかしてませんか?」
「特にありません」
型にはまった質問に、ふうは用意していた回答を返していく。
問題ありません。大丈夫です。特に不明な点はありません。
医者の高価で貴重な時間をもらっているのにも関わらず、それは流れ作業と変わらなかった。
「あ、そういえば、あなたはヒートの症状が重かったよね」
もうすぐ終わる。
そう見据えていたふうは、いつもとは違う流れに目を丸くした。
そして、戸惑いながらも頷きを返した。
「えっと、最初の三日間は記憶が曖昧になっちゃうんだっけ?」
「あ、はい。ほとんど覚えていないです」
先生は質問を投げかけながら、またマウスをカチカチと操作していった。
「実は僕の後輩に、大学病院でヒートの研究をしている子がいるの。その子が、従来の抑制剤よりも強い抑制剤を開発するために協力してくれる人を探しているんだ」
先生は瞳孔だけを移動させると、ふうを見つめた。
眼鏡を通していないので、おそらくぼんやりとしか見えていないだろう。
しかし、その眼差しは力強かった。
「 ── 興味ない?」
まるで時間が停止したかのような静寂が部屋を包み込んだ。
「興味があるなら紹介状を書くよ」
理解が追いついてから、ふうはようやく口を開いた。
「それって…どういうことをするんですか?」
ふうが質問すると先生はまたくるりと椅子を回転させ、向き合った。
彼のまとう雰囲気に焦りは感じない。
強制するつもりはないようだった。
「まずは、その大学病院を受診してもらうことになるね。それでいくつかの検査を受けて、薬を服薬しても問題ないかを判断する。大丈夫だと判断されたら、新薬を飲んでもらって、経過観察。それを定期的に繰り返す。因みに負担軽減費も出るからね」
説明を聞いているだけで、ふうは混乱した。
難しい単語はあえて省かれているのに、それでもすぐに飲み込むことができなかった。
それを察してくれたのか、先生は口角を上げて、表情を和らげた。
「混乱させちゃったみたいだね。紹介状は後日郵送もできるから、パートナーと話し合って決めても構わないよ」
「あ、そうさせてもらいます…」
「じゃあ、詳細が書かれた紙を渡しておくね」
今は正常な判断ができそうにない。
それだけはわかり、ふうは時間を置いた後に翔真とも話し合うことにした。
先生は軽快に頷くと、パソコン横に立てかけてあったファイルを指先でなぞり始めた。
「ただね、あなたたちが今使っている抑制剤ってかなり前に開発されたものなの。それこそ、バース性が認知された黎明期のもの。決して悪いものではないけれど、その当時の人たちのライフスタイルが如実に反映されている」
お目当てのファイルを見つけたのか、先生は指先で引っ掛けると、手元にたぐり寄せた。
そして、中から一枚の紙を取り出し、ふうに差し出した。
「昨今では、オメガでも結婚願望がない人もいるし、あなたのようにベータのパートナーを見つける人もいる。後輩が開発している新薬は、そういう、長くヒートと付き合わなくてはいけない人たちの助けになるだろうと、僕は思っているんだ」
ふうは先生の瞳を見つめながら、差し出された紙に触れた。
頭はまだ茹だったようにぼんやりとしている。
それでも、ふうの指先には確かに力が込められていた。
その紙を落とさないように、なくさないように。
「被験者になるということは恐ろしいイメージもあると思うけれど、ぜひ、色んな側面から見て判断してほしい」
紙を受け取った時点で、ふうの心は既に決まっていたと言っても過言ではない。
けれど、問題は山積みだった。
その大学病院がどこにあるのか。電車やバスにどれほど乗らなくてはいけないのか。
副作用も、きっとあるだろう。
なにより、翔真がどう思うか。
ふうはそれが一番気がかりだった。




