16:水槽の中
運命の番。
それはバース性を持つ者ならば、誰もが聞いたことのある単語で、初めて世に名前が出たのは、とある恋愛小説だった。
アルファとオメガの身分違いの恋愛を描いたその作品は大ヒットを記録し、不朽の名作として幾度となく映像化がされた。
最初は誰もがフィクションの設定だとわかっていた。
特別で、抗うことのできない強い関係性に夢を見るだけだった。
しかし、いつしか物語の中で多用されるようになり、アルファとオメガが結婚する際にも祝の言葉として当たり前に使われ始め、今では運命の番というものが実在するのか、非現実的なものなのか、誰にもわからなくなってしまった。
「母さん、運命の番ってアルファとオメガ特有のやつじゃん」
言葉に詰まったふうと翔真に気がつき、櫂は由美に片肘を当てた。
は、と由美は目を見開いた。
「あ、ごめんなさい! 良い意味のつもりだったんですけど、無神経でしたね…」
「いえいえ、わかってますから」
翔真は片手をひらひらと振って、愛想笑いを返した。
オメガの多くは、アルファを恋人に選ぶ。
そうすることでヒートを抑えられるし、生活にも困らなくなるから。
オメガが人間らしく生きていくための最も王道的で強い選択肢だ。
そんな世の中で、ふうはベータである翔真を選び続けている。
しかも、二人は良好な関係を維持している。
それが由美にとって、とてもドラマチックに映っただけのことだった。
「でも、実際のところ、運命の番って本当にいるのか気になります」
櫂は半分降ろした瞼の奥、その瞳を好奇心で輝かせる。
じっと見つめられ、ふうは視線を泳がせた。
「今までアルファと少しは関わったことはあるけど、運命を感じた人はいなかった」
オメガになってから、ふうは定期的に大きな病院に通っている。
それは検査や、抑制剤をもらうために、必要なことだった。
そして、そういう病院には必ずと言っていいほど医者として働いているアルファが存在する。
時には、会話を交わしたこともあったけれど、特別何かを感じたことはなかった。
「なんだ、結局はフィクションか」
櫂は体を仰け反らせると、頭の後ろで手を組んだ。
ふうはその反応に、首を傾げた。
「どうなんだろう。マッチングアプリには、結婚したアルファは運命の番だったって言ってる人もいる」
「それって、自分の結婚生活を肯定したいだけじゃないんですか?」
「それもあるかもしれないね」
鋭いことを言う櫂に、ふうは思わず笑ってしまった。
それから四人は、更に会話を重ねて、様々なことを話した。
最終的には翔真の仕事の話や、ふうが趣味でやっているシミュレーションゲームの話など、バース性に関係のないことまで話すようになり、時おり軽快な笑い声が店内に響いた。
ふと翔真が時計を確認したのは、長針が十時を指す直前のことだった。
明日は月曜日で、翔真は朝早くに電車を乗り継いで、出社しなくてはいけない。
その事実が、この集まりを終わらせようとしていた。
「すみません、長々と引き留めてしまって」
「いえ、こちらも良い息抜きになりました。誰にでも話せるような内容ではないので」
思っていたよりも話し込んでしまい、由美は深々と頭を下げた。
それに対して翔真が首を横に振ると、ふうも同意して頷いた。
温和な二人に、由美は救われたような気持ちになった。
「あの、片倉さん」
由美は一歩踏み出すと、エプロンのポケットから一枚の紙を取り出した。
それはいくつもの切り取り線があるクーポンの束だった。
内容は多岐にわたり、コーヒー半額や、おかわり無料、デザートのフルーツ増量などと書かれていた。
「ここ、アンダンテは平日の日中も営業しています。午前中の十時から十一時、午後の十七時から十八時はテイクアウト希望のお客様が立ち寄るぐらいなので、外に出たくなった時にでも遊びに来てください」
ふうはきょとんと目を丸くしたが、すぐに由美が言わんとしていることを理解した。
周囲の視線が痛くて、自由に外出できないふうのために場所を提供すると、由美は言っているのだ。
「いいんですか…?」
「はい、もちろんです。北野さんも、ぜひまた来てください」
ふうはお礼の言葉とともにクーポンを受け取った。
じわり、と目の端が滲んだ。
長らく同じ人とだけ関わって生きてきたため、知り合いが増えるという久しぶりの感覚に、胸が熱くなっていく。
「相談できたのが、お二人で本当によかったです」
目を細めて笑った由美の後ろで、櫂も照れくさそうに手を振ってくれた。
それに手を振り返し、ふうと翔真はカフェ・アンダンテから外に出た。
「よかったなぁ」
「うん…」
ふうの目の端に溜まった涙はこぼれ落ちることはなかった。
それでも、小さく鼻をすすった彼女の心境に、翔真は長年の経験から気がついていた。
彼女の小さな後頭部に、ぽんっと手を置き、優しく撫でる。
夜風が駆け抜け、柔らかい髪がふわふわと揺れた。
「ねぇ、翔真。私…引っ越したくない」
バス停にたどり着くと、ふうは意を決したように告げた。
小さな声だったけれど、翔真を見上げる眼差しには力強さがあった。
「アルファが近くにいて、危ないことはわかってるけど…でも…」
ふうはカフェ・アンダンテのクーポンを握る手にほんの少しだけ力を込めた。
「まだ、ここにいたい」
翔真は目を細め、思案した。
前回のヒート時に、近くにアルファがいることを知り、二人は新居を探していた。
引っ越すことは安全面を考えれば、妥当な選択だった。
しかし、なかなか条件の合う物件が見つからず難航しており、後ろ髪を引かれる存在もできてしまった。
なにより、翔真はなるべくふうの意見を尊重したいと思っていた。
今まで、たくさんのものを諦めてきたことを知っているからこそ。
「…来月、またヒートが来るだろ?」
「うん」
「その時に、周囲を確認する。それで、アルファが見つからなかったら、延期しよう」
中止ではなく延期。
それが、翔真ができる最大限の譲歩だった。
ふうは眉尻を下げながらも、口角を上げて笑った。
「ありがとう」
満面の笑みではない。
それでも、彼が自分のことを思ってくれていることは伝わってきて、ふうは笑うことができた。
「ねぇ、翔真。私は、運命の番なんていないと思ってる。いなければいいと思ってる」
ふうは翔真を見上げたまま、彼の手に指を絡ませた。
「翔真以上の人なんていない」
翔真もふうと目を合わせ、彼女の手を握り返した。
「前にネットで、恋なんて三年経てば醒めるって書いてあったけど、あれ嘘だと思う」
また、夜風がふうの髪で遊び始めた。
雲間から顔を覗かせた月の光に照らされて、ふうは白く浮かび上がる。
それはまるで、ライトアップされた水槽の中を揺蕩うクラゲのようだった。
「だって、どんどん好きになる」
翔真は顔が赤くなるのを感じながら、それを隠すように笑った。
「外で、そんな可愛いこというのやめてよ。何もできないじゃんか」
確信犯だったのか、ふうは余裕のある笑みを浮かべた。
「翔真、可愛い」
「可愛くないだろ」
翔真は手早く周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると、腰を曲げた。
そして、ふうの唇に、自分の唇を重ねる。
ほんの一瞬。
それは短い時間だった。
「明日が月曜日じゃなければなぁ」
悔しがる翔真に、ふうはクスクスと笑う。
漂う甘い空気を掻き消すように、バスのライトが、二人を眩しいほどに照らした。




