11:水中カフェ
月曜日の十四時。
ふうは慌ただしく、部屋の中を行き来していた。
寝室にあるクローゼットからよそ行きの服を取り出して身にまとい、脱衣所にある洗面台で化粧をし、また寝室に戻ってチョーカーを手に取った。
ここ最近は翔真につけてもらうことが多かったため、金具を留める手つきがおぼつかない。
上げている腕がつりそうな感覚に怯えながらも、なんとか身支度を済ませた。
(おかしくない…よね?)
姿見の前で、自分の格好を上から下までじっくりと確認してから、ふうはようやく外に出た。
七月になり、暑い日が増えてきた。
向日葵はまだ咲いていないし、蚊も飛んでいない。
それでも、差し込む日差しには既に凶暴さが顔をのぞかせており、それから逃げるためにふうは日傘を広げた。
視線を上に向けると、日傘の内側を彩る黒くてテロテロした布地が見えた。
端から見れば、青色のグラデーションが美しい日傘なのに、ふうからすれば闇の中だった。
(今年も暑くなるのかな)
ふうは他人事のように考える。
外で仕事をしていないから、日中に外出する機会があまりない。
そのため、夏の暑さは、彼女にとっては本当に他人事だった。
(えっと、カフェがある方角は…)
ふうはスマホを取り出すと、慣れない手つきでマップアプリを開いた。
そこに、目的地であるカフェの名前を入力し、どう進めば辿り着くのかという道標を確認した。
徒歩で向かうなら四十分。バスで向かうなら三十分。そして、電車で向かうなら二十分と表示されている。
おそらく、多くの人はこの三つの選択肢の中から電車を選ぶのだろうが、ふうは迷いなく徒歩で向かうルートを選択した。
電車やバスは、人が多いからという理由もある。
しかし、運動不足のふうにとって、これは貴重な運動をする機会だった。
(家を眺めるのって楽しい)
最初は、通り過ぎる家々を眺めて楽しんでいた。
洋館風の一軒家。豆腐のようなスッキリとしたフォルムのアパート。いかにも高級そうなラウンジ付きのマンション。
同じ家は一つもなくて、どの家にもこだわりを感じる。
あの家には、どんな人が住んでいるのだろうか。
庭に咲き誇る花々の種類を気にしながら、ふうは空想にふけった。
そして、十五分が経過した頃、チョーカーの内側が汗ばみ始め、ふうは徒歩ルートを選択したことを後悔し始めていた。
(無謀だったかも…)
こんな暑い日なんだから、せめてバスにしておけばよかった。
そう考えながらも、今さらバスに乗ることもできず、ふうはトボトボと歩き続けた。
帰りは絶対にバスにする、と決めて。
四十分が経過した頃、目的地であるカフェが見えてきた。
(“アンダンテ”)
音楽用語で、歩くような速さで。
民家の間に、ぽつんと建っている小さな建物には、そんな名前がついていた。
(女の人が一人で経営してるとか…)
事前に聞いていた情報を頭の中で繰り返し、チラリと窓から店内を覗き込んだ。
すると、カウンターに一人の女性が立っていた。
髪を低い位置でお団子にまとめ、穏やかな眼差しでサイフォンを見つめている。
(なんか…美味しいコーヒーが飲めそう)
漂う雰囲気に、根拠もなくそう感じた。
「あ、ふうー!」
名前を呼ばれて、振り返った。
電車に乗って来たのだろう。
駅のある方角から、このお店を教えてくれた張本人である中河原が駆け寄ってくるのが見えた。
「久しぶり! 声かけてくれてありがとね!」
明るい声が辺りに響く。
赤やオレンジ色を身にまとっていることもあり、中河原はまるで太陽そのものだった。
「愛梨も、お店見つけてくれてありがとう」
「前から目星つけてて、行ってみたいなって思ってたカフェなんだ」
中河原は嬉しそうに目を細めると、ふうに両手を伸ばした。
そして、ふうの頬に遠慮なく触れ、大福のように扱った。
「あー、癒される」
頬をタプタプされても、ふうは嫌がらなかったし、逃げもしなかった。
これはもう、二人の中ではお決まりの流れになっていた。
「元気だった? 翔真くんとは仲良くしてる?」
次々と質問を投げてくる中河原に、ふうは苦笑いを浮かべた。
「中に入ってから話そう」
「それもそうだね!」
ふうの指摘に機嫌を損ねることもなく、中河原は躊躇なくカフェの扉を開けた。
途端、充満していたコーヒーの香りがふわりと逃げ出し、二人を包み込んだ。
そのまま、誘われるように足を踏み入れると、穏やかな声が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。店内をご利用ですか?」
「はい」
「二名様ですか?」
「はい」
「奥のテーブル席にどうぞ」
女性店主とやり取りをする中河原を横目に、ふうは改めて店内を見渡した。
水色の壁紙に、天井からぶら下がるいくつものガラスのモビール。
窓辺にも、ガラス細工が置かれていて、まるで光が差し込む水中のようだった。
「綺麗…」
そう呟いたふうの声に反応し、女性店主は視線を向けた。
そして、彼女の首に巻かれている黒いチョーカーを見つけ、思わず肩を震わせた。
しかし、すぐにその感情を押し殺すと、二人の席にメニューを持っていき、いつもと変わらない態度で接客をこなした。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
カウンターに戻っていく店主を見送り、ふうと中河原は顔を寄せ合って、メニューを眺めた。
「ふうは何にする?」
「アイスコーヒー」
「そうだと思った」
「愛梨は?」
「アイスカフェラテか、この自家製ジンジャーエールで迷ってる」
「どっちも美味しそう」
「そうなんだよー! てか、このチーズケーキも食べたい!」
「食べなよ」
「食べる! ふうは?」
「食べる」
「だよねー!」
他に客がいないこともあり、二人の声はよく響いた。
注文をし終えると、店主がさっそくサイフォンでコーヒーを淹れ始めた。
サイフォンを使っているカフェはあまり多くない。
だからこそ、二人はついついその珍しい光景に見入った。
「サイフォンでコーヒー淹れてるのを見ると、コーヒーって化学なんだなって思う」
「料理も化学って言うよね」
「ふうは化学苦手だったね」
「うん」
ランプの炎がユラユラと揺れるのを眺めながら、他愛もない会話を交わしていく。
元々、二人の中に話さなくてはいけない内容は特になく、ただ会いたかったから時間を合わせたに過ぎなかった。
「そういえば、今日はわざわざ休みを取ってくれたの?」
思い出したように、ふうは中河原を見上げた。
中河原はランプの炎を見つめたまま、答えた。
「うん。溜まってた代休使っちゃった」
「使うと、余計に忙しくなっちゃうんじゃないの?」
過去に彼女が言っていた言葉を思い出し、ふうは少しだけ不安になった。
「そうなんだけど、もう無理して頑張らなくていいかなーって思って」
中河原は瞼を閉じると、寂しそうに笑った。
「ねぇ、ふう。愚痴、聞いてくれる?」
ふうは、中河原の閉じられた瞳を見つめ、力強く頷いた。
「もちろん」
ふうの言葉に、中河原は瞼を持ち上げた。
そして、苦笑いを浮かべると、いつもよりも小さい声で話し始めた。
「今、雑誌業界って大変なんだよね。というか、電子書籍化が進んで本屋が減ってるから、本自体があんまり売れなくなっちゃってるの」
業界について詳しくはないし、経済についても詳しくはないけれど、聞いたことのある話だった。
おそらく、暇な時に見たワイドショーで取り上げていたのだろう。
ふうはそう納得し、相槌を打った。
「雑誌を電子書籍化したり、豪華な付録を付けたりして、なんとか売ってるけど、やっぱり昔ほどは売れなくて、だんだん予算も削られてきてる」
大好きなファッション雑誌が縮小している。
それで落ち込んでいるのだと、ふうは解釈した。
けれど、そうではないのだと、すぐにわかった。
「どうにか盛り上げるためにって、会社側が新卒で採用したアルファをうちの部署に配属させたんだよね」
思わぬ方向に舵が切られ、ふうは思わず首を傾げた。




