1.おかえりなさい、アリエッサ
もったりとした髪をひっつめ、暗色のドレスを身に纏います。
私は起きてから落ち着きなく窓の傍を行ったり来たり……。
開け放たれた窓から柔らかい花の香りが漂ってきていて、今にも踊り出せそうな気分ですわね。
「奥様、今日は機嫌がいいですね」
本の続きは読まないのですか? と首を傾げるリリアを振り返り、笑顔で頷きました。
「ええ。なにせ、今日は――……」
指の先を合わせて説明しようとした私の耳に、車輪が回るカロカロという音が聞こえてきました。
窓枠を掴んで身を乗り出して外を見ます。
「来たわ!」
向かい合う獅子の紋様付きの旗がついている、純白の馬車。
門の前に停まったのを見て、私は廊下に飛び出しました。
リリアの声が慌てて追ってきますが、彼女は追いつけないことに気付けば放っておいてくれるでしょう。
もしかしたら雇い主である侯爵様の元へ行ったかもしれませんが。
「奥様、そんなに急がれてどうされましたっ?」
私は女主人として常日頃ゆったりと歩くことを心掛けています。
そんな私が走っているからでしょうね、すれ違う使用人のほとんどに驚かれてしまいました。
ですが、彼らに構っていられません。
今日ばかりは階段も段飛ばしで下りてしまいます。
こんなところを侯爵様に見られたら、はしたないと怒られるかしら。でも、それでもいいわ。
玄関扉を開けてもらうと、風が吹き込んできました。
春の匂いが鼻をくすぐってきます。
大きく開けた視界の先に、《《彼女》》がいました。
丸いフォルムの日傘を差して、明らかに警戒している使用人にも「ありがとうございます」と笑顔でお礼を言って――ああ、あなたは変わらないわね。
庭の花が太陽の光を受けて、鮮やかに色めきます。
このお屋敷にもようやく春が来たのですね。
花吹雪が舞って、彼女の愛らしさがより引き立ちます。
肩まで真っ直ぐに伸びた黒い髪、ガーベラのような大きなピンク色の目。
健康的な肌色の女性は、白い丸襟のブラウスに黒いシックなエプロンドレスに身を包んでいました。
「……あなたが王宮から来た監査官?」
私が話しかけると、彼女は日傘を閉じて一礼しました。
こちらを真っ直ぐ見つめてくる、意思の強い瞳が揺れます。
「も、もしかして。侯爵夫人……ですか?」と言った彼女の足が一歩前に進みました。
口の端が引きつき、周りに視線を送ります。
ですが周りにいるのは口の堅い侯爵家の使用人です。
皆が皆、こましゃくれたすまし顔で見返して説明しようとしません。
そのせいでしょうか、彼女が動揺しています。
「アリエッサ・ケインズ監査官よね」
あまりの嬉しさから私は彼女に近づいたわ。
でも、これはどういうことかしら。
私が近づけば近づく程、彼女との距離が開いていきますわよ。
「どうして……私」
手を握って震えていた彼女の目と鼻の先まで行くと、彼女は足をもつれさせてひっくり返ってしまったわ。
「大丈夫ですの!?」
助け起こそうとすると、彼女は「こ、腰が……」と手で擦ります。
それから私を見上げてきました。
(やっぱり、あなたはこんな姿になっても私を真っ直ぐに見てくださるのね)
化け物の頭部に女性の胴体。そんな得体の知れないものになったというのに。
流石は私たちのアリエッサですわ。
しゃがみ込んで彼女の手を握り、にこやかに微笑みます。
実際は裂けた口が頬に亀裂を走らせ、涙袋がでろりと落ちくぼんで恐ろしい形相になっているでしょうけれど……。
「私のお友達になってくださいな、アリエッサ」
「な、なんで私の名前を……」
ぶるぶると震える手を、両手でしっかりと握って離さないでいる私を見てくれる愛おしいあなた。
「これ、”はい”って言わないと腕を引っこ抜かれるとかじゃないわよね」
「私の大切なお友達にそんなこといたしませんわ。こんな見てくれですが、安心してくださいな」
アリエッサはぎこちなくはありますが、笑みを浮かべてくれます。
返事をこの場で貰いたいわ。
そう思って更に近づけようとしていた顔を、後ろに引かれました。
……まあ、顔になにかを吹きかけられましたわね。変な匂いはしませんので、水でしょうか。
反射的に目を閉じていた私は瞬きます。
「君は一体なにをしているんだ。客人を怖がらせるんじゃない」
という、ため息まじりの声が後ろから聞こえてきました。
振り返ると侯爵様が腰に手を当てて立っておられ、私は首を傾げます。
「あら、侯爵様」
どうしてこんなことをするんですの。
アリエッサにも今の私の姿を見せようと思っていましたのに……。
そう思って掛けられた液体を指に掬い取ります。
「ただの化粧水だから安心してくれ」
とろとろと溶け落ちていく化け物の皮に、アリエッサは慄いて指を差してきました。
そして、ふうっと息を吐き出したかと思えば、後ろに倒れて――。
「アリエッサ!?」
慌てて手を伸ばして抱きとめます。
アリエッサが怪我をしてしまっては大変ですわ!
完全に意識を失った体はぐにゃぐにゃと頼りなく、そして見た目以上に重く感じられました。
「ああほら、君が驚かすから」
「そうですわ。ですが、侯爵様が魔法を解いてしまわれたのが決め手ではありませんの」
私だけのせいではないですわと顎をツンと上げてそっぽを向くと、侯爵様は笑ってくださいました。
そして「そうだな、俺のせいでもある」と私に意見を合わせてくださいます。
優しさに笑い返してしまいます。
私たち随分とお互いに慣れてきたように思えませんこと?
「それで、この女は誰なんだ。おい、王宮の馬車だったが名乗っていたか」
不躾に思える訪問者の正体を周囲に訊ねられます。
それに使用人は「いえ、全く。突然の訪問でしたので」と首を振りました。
では、代わりに私が答えましょう。
「名前はアリエッサ・ケインズ。王宮の監査官ですわ」
「つまりコイツは、うちの領の景気がいいから怪しんで来たんだな」
だからといってこのまま追い出す訳にもいかないな……と顎に手を当てて考え込む侯爵様に「そうですわね」と同意いたします。
「そして、あなたの正妻になられる方ですわ!」
手を合わせて微笑みかけると、侯爵様は顔を顰めてしまわれました。




