第6話
「結衣、右に回れ! 正面に立つな!」
俺の叫び声は歓声に掻き消され、結衣は美咲の正面に立たされてしまう。
最終ラウンドの終盤。両者ともに体力はとうに限界を超えている。だが、美咲の動きには一切の無駄がなく、機械のように正確に結衣をロープ際へと追い詰めていく。彼女のストイックな完璧主義が、疲労困憊の身体を無理やり動かしているようだった。
美咲の左ジャブが空を切り、結衣が沈み込む。
だが、美咲の氷のように冷たい視線は、結衣の動きを完全に予測していた。
彼女の肩がわずかに下がり、右拳に全身の力が込められるのが見えた。
「終わりよ」
淡々とした、しかし確かな殺気を帯びた声とともに、美咲の右ストレートが結衣の顔面へと打ち下ろされる。
それは、これまでのラウンドで美咲が見せてきたどのパンチよりも速く、重い一撃だった。完璧なタイミングと角度。結衣の逃げ道を完全に塞ぐ、決定的なフィニッシュブロー。誰もが結衣の敗北を確信した瞬間だった。
俺はコーナーポストを握りしめ、思わず息を呑んだ。結衣のダメージは蓄積している。これ以上は危険だ。タオルを投げるべきか。そんな迷いが脳裏をよぎった。
しかし、結衣の身体はそこにはなかった。
すり減ったスニーカーのつま先がキャンバスを強く噛み、常識外れの角度でさらに深く沈み込んだのだ。
相手の攻撃をギリギリで見切り、死角へと潜り込む。それは俺がかつて不可能だと諦め、ノートから破り捨てた未完成の理論だった。
結衣はそれを、自身の天性の感覚で見事に補完していた。
いじめから逃げ回る中で培った特異なステップ。理不尽な暴力に屈しないという強い意志。それらが融合し、俺の未完成な理論を現実のものへと昇華させたのだ。
美咲の拳が、結衣の髪の毛数本を揺らして空を切る。
渾身の一撃を躱された美咲の体勢が大きく崩れ、彼女の左半身に無防備な空間が生まれた。
それは、俺がかつて夢見て、そして絶望とともに封印した「幻のカウンター」の入り口だった。
結衣は美咲の最大の隙を突く絶好のポジションに踏み込み、全身のバネを極限まで圧縮して右拳を握りしめる。
客席から、権田会長の驚愕の声が響いた。
「あいつ、まさか……あの技を!」
その声を聞いた瞬間、俺の中でずっと止まっていた時計の針が、カチリと音を立てて動き出した。
怪我で引退を余儀なくされ、志半ばでリングを降りたあの日。俺の時間はそこで止まっていた。娘に自分の夢を押し付けているだけではないかという恐れ。指導者としての自信のなさ。それらがずっと俺の心に重くのしかかっていた。
だが今、目の前のリングで、俺の愛する娘がその呪縛を打ち破ろうとしている。
結衣がキャンバスを蹴る。
圧縮された力が解放され、右拳が下から上へ、螺旋を描くように跳ね上がった。
そこからの光景は、ひどくゆっくりとしたスローモーションのように感じられた。
空中に飛び散った汗の粒が、照明の光を反射して静止している。
美咲の驚愕に見開かれた瞳。
そして、結衣の迷いのない真っ直ぐな視線。
結衣の右拳が、空気を切り裂きながら美咲の顎へと迫っていく。
その軌道は、俺が何度も夢に見て、何度も絶望したあの軌道そのものだった。いや、それ以上に鋭く、力強い。
俺の想いと、結衣の才能が完全に融合した一撃が、美咲に向かって一直線に放たれる。
ドゴォォォン!
静寂を切り裂くような、凄まじい衝撃音がリングに響き渡った。
幻のカウンターが、美咲の急所を完璧に打ち抜いたのだ。
美咲の身体が宙に浮き、糸の切れた人形のようにキャンバスへと崩れ落ちていく。
「パパ、勝ったよ!」
リングの上から、結衣が俺に向かって叫んだ。
その声には、かつていじめに怯えていた少女の面影はない。
自分の力で理不尽な暴力に立ち向かい、最後までリングに立ち続けた誇り高きボクサーの顔だった。
俺の両目から、熱いものがとめどなく溢れ出した。
ずっと自分を責め続けてきた過去の呪縛が、結衣の放った一撃によって粉々に砕け散っていく。
俺が教えたボクシングは、決して間違っていなかった。
娘は俺の夢を受け継ぎ、そして俺を救ってくれたのだ。
ボクシングという共通言語を通じて、俺たちは互いの欠落を埋め合い、最強の絆を手に入れた。
だが、レフェリーは結衣をニュートラルコーナーへ向かわせた。
キャンバスに倒れ伏した美咲の指先が、微かに動いた。
氷のように冷たい彼女の瞳の奥には、まだ敗北を認めていない執念の炎が揺らめいている。
放たれた幻のカウンターは、無敗の王者・美咲を本当に打ち破れたのか。
審判のカウントダウンが、静まり返った会場に響き始めた。




