第7話
「シックス……セブン……」
静寂に包まれたアリーナに、第三の男の無機質な声だけが響き渡る。
キャンバスに倒れ伏していた橘美咲の指先がピクリと動き、やがてその肩がゆっくりと持ち上がった。
ダメージは甚大なはずだ。結衣の放った一撃は、間違いなく彼女の急所を捉えていた。それでも美咲は、ロープにすがりつくようにして膝を立てる。
氷のように冷たい彼女の瞳の奥で、決して敗北を認めない執念の炎が赤々と燃え上がっていた。
「エイト……ナイン……」
カウントが十に届く直前、美咲はふらつく足に力を込め、完全に立ち上がった。
会場全体がどよめきに包まれる。あの一撃を食らってなお立ち上がる無敗の王者の姿に、観客たちは息を呑んだ。
第三の男が美咲の目の前に立ち、グローブを拭って意思を確認する。美咲は小さく、だが力強く頷いた。
その瞬間、客席の最前列から怒号が飛んだ。
「行け、美咲! お前は私の最高傑作だ!」
美咲の父であり、俺のかつてのライバルだった橘竜二だ。彼もまた、俺への執着と自身のプライドのすべてを娘に託している。親世代からの因縁が、この四角いジャングルの中で複雑に絡み合っていた。
第三の男が両手を振り下ろす。
再開のゴングが会場に鳴り響いた。
再開直後、美咲が鬼気迫る表情で距離を詰めてきた。
先ほどのダウンなど微塵も感じさせない、洗練された猛攻だった。
左のジャブで結衣の視界を塞ぎ、鋭い右ストレートを顔面に突き刺してくる。結衣がガードを固めると、今度は息をつく暇もなく左フックが飛んできた。
ストイックに鍛え上げられた無駄のない動き。完璧主義の彼女らしい、一切の妥協を許さない連打だ。
結衣はロープ際まで押し込まれ、防戦一方になる。
「結衣、足を使え! 正面に立つな!」
俺はセコンドの位置から声を張り上げた。
結衣は俺の指示に即座に反応した。あの異常にすり減ったスニーカーのつま先。いじめっ子から逃げ回る中で無意識に身につけた特異なステップを軸にして、鋭く斜め前へ踏み込む。
美咲の連打を間一髪で躱し、死角へと回り込もうとする。
だが、美咲もすぐに対応してきた。結衣の変則的な動きを予測したかのように、踏み込みの先へ右のショートアッパーを合わせてくる。
「くっ……」
結衣の顔が歪み、後方に大きくたたらを踏んだ。
「あなたには負けない……絶対に!」
美咲の冷徹な声がリングに響く。彼女の背負っている重圧が、その拳に重い殺気を宿させていた。
苦戦を強いられる娘の姿に、俺の胃の奥が冷たくなる。
だが、結衣の瞳の光は全く失われていなかった。彼女は俺を信じている。俺が教えたボクシングを、絶対に馬鹿にさせないという強い意志が、その小さな体に満ちていた。
「右に回って、左のボディだ!」
俺の声を信じ、結衣は美咲の右ストレートをダッキングで躱すと同時に、強烈な左を美咲の腹部に叩き込んだ。
美咲の体がくの字に折れ曲がるが、彼女はうなり声を上げて強引に距離を詰めてきた。
そこから、限界を超えた死闘が始まった。
互いの意地と誇りがぶつかり合う、壮絶な打ち合い。結衣は俺が教えた技術のすべてを体現し、美咲の猛攻に食らいついていく。
汗の飛沫が照明に反射して散る。息の詰まるような攻防が続く中、最終ラウンドの残り時間が三十秒を切った。
美咲が勝負を決めるべく、渾身の右クロスを放ってきた。
結衣の体が、滑るように沈み込む。
破り取られたノートの最終ページ。そこに書き残していた未完成の理論。
結衣は自身の天性の感覚でそれを補完し、美咲の最大の隙を突く絶好のポジションに踏み込んだ。
全身のバネを解放し、拳を握りしめる。
俺が怪我で完成させられなかった、あの封印された一撃。
結衣の右拳が、美咲の顎を正確に打ち抜いた。
パーン!
乾いた破裂音が響き渡る。
一瞬の静寂の後、美咲の体が糸の切れた人形のようにキャンバスへと崩れ落ちた。
今度こそ、彼女は立ち上がれなかった。
第三の男が両手を交差させ、試合終了を宣言する。
会場中から、割れんばかりの大歓声が巻き起こった。
「パパ、勝ったよ!」
リングの中央から、結衣が俺に向かって叫んだ。
俺はロープを潜り抜け、リングに駆け上がった。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった娘の小さな体を、力強く抱きしめる。
「ああ……よくやった。本当によくやったな、結衣」
俺は結衣の汗ばんだ背中を、何度も叩いた。
ずっと自分を責め続けてきた過去の呪縛が、完全に消え去っていくのを感じた。
俺が教えたボクシングは間違っていなかった。
娘は俺の夢を受け継ぎ、そして俺を救ってくれたのだ。
意識を取り戻した美咲が、セコンドに支えられながら立ち上がった。
彼女は結衣の方を見ると、清々しい表情で小さく頷いた。
結衣もまた、深く頭を下げる。
客席では、権田会長や矢島、そして真由美が歓喜に沸いていた。
俺は娘の成長を誇らしく見つめる。
指導者として、そして父親としての誇りを、俺は完全に取り戻していた。
激闘を終え、俺たちはリングを降りた。
控室へと続く通路を歩きながら、結衣が俺の袖を軽く引いた。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「私、もっと強くなれるかな」
その言葉に、俺は少しだけ驚き、そして笑みをこぼした。
いじめに怯えていた少女はもういない。ここから先は、彼女自身の足で歩んでいく新たな道だ。
俺たちの絆は、このリングの上で確かに結び直された。だが、それはゴールではなく、始まりに過ぎないのかもしれない。
「ああ。お前なら、どこまでだって行けるさ」
俺は結衣の頭を撫でた。
明日からまた、あの古びたジムでの日々が始まるのだろう。
俺たちの未来がどこへ向かうのか、今はまだ分からない。それでも、隣を歩く娘の横顔は、頼もしい光に満ちていた。




