↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/18

第4話

あの夜から、結衣は手の皮が破れてもサンドバッグを叩き続けた。


地区大会決勝までの数週間。俺たちは古びたジムにこもり、ひたすら「幻のカウンター」の反復練習に明け暮れた。相手の攻撃を紙一重で見切り、自らの体を極限の危険に晒す諸刃の剣。少しでもタイミングがずれれば、結衣の華奢な体は致命的なダメージを負う。


何度もやめさせようとした。だが、結衣は決して首を縦に振らなかった。


そして今日、俺たちは決戦の舞台に立っている。


地区大会決勝戦の会場となる市民体育館。その地下にある薄暗い控室で、俺は結衣の小さな拳にバンテージを巻いていた。


「きつくないか」


「ううん、ちょうどいい」


結衣の声は落ち着いていた。以前のように、試合前に過呼吸気味になることもない。手首から拳にかけて、白い布が幾重にも重なっていく。その感触を確かめるように、結衣はゆっくりと指を握り込んだ。


コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「やあ、邪魔するよ」


ドアを開けて顔を出したのは、よれよれのスーツを着た矢島浩平だった。無精髭を撫でながら、飄々とした足取りでパイプ椅子に腰を下ろす。


「矢島さん。わざわざ控室まで?」


「決勝戦だからね。特等席で君たちの奇跡を見届けたくてね。それに、手土産もある」


矢島は内ポケットからタブレット端末を取り出し、画面を俺たちに向けた。再生されたのは、橘美咲の準決勝の映像だった。


リングの中央を陣取る美咲の動きには、一切の無駄がない。相手のパンチを最小限の動きで外し、氷のように冷たい表情のまま、正確無比なジャブを急所に打ち込んでいる。


「彼女、この大会でまだ一発もクリーンヒットをもらっていない。完璧なアウトボクシングだ。相手との距離をミリ単位で支配している」


矢島は画面をスクロールさせ、詳細なデータを開いた。


「特に左のリードジャブ。あれはただの牽制じゃない。相手の視界を塞ぎ、思考を奪うための凶器だ。君たちの秘密兵器が、あの鉄壁の要塞にどう立ち向かうのか。僕としては非常に興味深い」


「……わざわざプレッシャーをかけに来たんですか」


俺が苦笑すると、矢島は肩をすくめた。


「事実を伝えただけさ。でも、君の娘さんの瞳を見れば、そんな心配は無用だったみたいだね」


矢島の視線の先で、結衣はタブレットの画面をじっと見つめていた。その横顔に怯えはない。ただ静かに、獲物を狙うような鋭い光を宿している。


「じゃあ、リングサイドで待ってるよ。健一君、君の指導者としての真価、見せてもらうからね」


矢島はひらひらと手を振り、控室を出ていった。


静寂が戻った部屋で、俺は立ち上がり、古びたミットを両手にはめた。


「結衣、アップを始めるぞ」


「はい」


結衣が立ち上がり、軽くステップを踏む。キュッ、キュッとシューズが床を擦る音が、リズミカルに響いた。


「ワンツーから、左フック」


俺の指示に合わせて、結衣が踏み込む。


シュッ、パーン!


乾いた破裂音が、狭い控室に反響した。ミット越しに伝わる衝撃が、俺の肩口まで突き抜ける。以前よりも遥かに鋭く、重い。あのすり減ったスニーカーのつま先が生み出す特異なステップが、パンチに爆発的な推進力を与えているのだ。


「いいぞ。次はダッキングからの右」


結衣の体が滑るように沈み込み、下から突き上げるような右ストレートがミットに突き刺さる。


ズン、と鈍い音がした。俺は思わず数歩後ずさった。左腕の古傷ではない、結衣のパンチ力そのものが俺の腕の筋肉を悲鳴を上げさせている。


「父さん、大丈夫?」


結衣が動きを止め、心配そうに俺の腕を見た。


「ああ、問題ない。お前のパンチが重くなった証拠だ」


俺はミットを下ろし、結衣と正面から向き合った。


「結衣。美咲は強い。今まで戦ってきた相手とは次元が違う。もし、少しでも危ないと思ったら、無理にあのカウンターは狙うな。ガードを固めて、足を使って逃げろ。いいな」


俺の言葉に、結衣は真っ直ぐに俺の目を見返した。


「逃げないよ」


その声は小さかったが、確かな熱を帯びていた。


「私、もう逃げたくない。父さんが教えてくれたボクシングを、絶対に馬鹿にさせない。だから、絶対に勝つ」


かつて路地裏で泥にまみれ、震えていた少女の面影はどこにもない。そこには、一人のボクサーとしての確固たる覚悟があった。


俺は息を吐き出し、結衣の頭にポンと手を置いた。


「……わかった。お前の好きにしろ。俺はセコンドで、お前を全力でサポートする」


「うん」


結衣が力強く頷いたその時、控室のスピーカーから入場を促すアナウンスが流れた。


決戦の時だ。


俺たちは控室を出て、薄暗い通路を歩き出した。前方から漏れてくる眩い光と、地鳴りのような歓声が少しずつ近づいてくる。


ゲートを抜けると、視界が一気に開けた。


すり鉢状の観客席は満員で、熱気が肌を刺すように伝わってくる。リングの上には、すでに青コーナーの入場を待つ対戦相手の姿があった。


橘美咲。


均整の取れたアスリート体型。無駄のない動きでシャドーボクシングを繰り返す彼女の表情は、氷のように冷たく、感情の起伏を一切感じさせない。その背後には、腕を組んで鋭い視線を送る彼女の父親の姿があった。


因縁の相手。俺がかつて越えられなかった壁の、その娘。


結衣がリングサイドの階段を上り、ロープをくぐってリングに入る。会場の歓声が一段と大きくなった。


レフェリーに呼ばれ、リングの中央で二人が向かい合う。


美咲の冷徹な視線が、結衣を上から下まで値踏みするように舐める。


「……あなた、少しはマシな顔になったわね」


美咲の声は、相変わらず淡々としていた。


「でも、結果は同じよ。私の前では、どんな努力も無意味だと教えてあげる」


結衣は何も言い返さず、ただ静かに美咲を見据えていた。その瞳の奥で、静かな闘志の炎が揺れている。


レフェリーの注意事項が終わり、二人がそれぞれのコーナーに戻る。


俺は結衣のマウスピースを口に含ませ、その背中を両手で力強く叩いた。


「行ってこい」


結衣が振り返らずに頷き、リングの中央へ歩み出る。


会場全体が息を呑み、一瞬の静寂が訪れた。


カーン!


決戦のゴングが鳴り響いた。


その瞬間、美咲の体がブレた。


速い。先日のスパーリングの時とは比べ物にならないスピードで、美咲が距離を詰めてくる。結衣がステップを踏んで死角へ逃げようとするが、美咲はそれを先読みしたかのように、正確な左ジャブを放った。


シュッ!


鋭い風切り音とともに、美咲の拳が結衣の顔面を掠める。結衣の体がわずかに仰け反り、バランスを崩した。


そこに、美咲の容赦ない右ストレートが襲いかかる。


結衣は間一髪でガードを上げたが、その強烈な衝撃に体がロープ際まで弾き飛ばされた。


「結衣!」


俺はロープを掴み、叫んだ。


美咲の猛攻は止まらない。息をつく暇も与えず、左右の連打が結衣のガードを容赦なく削っていく。圧倒的なプレッシャー。完璧な技術。


結衣の猛特訓の成果は、この絶対的な王者の前に通用するのか。


ガードの隙間から見えた結衣の表情が、苦痛に歪む。


破り取られたノートの空白のページが、俺の脳裏に不吉な影を落とした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。