第4話
あの夜から、結衣は手の皮が破れてもサンドバッグを叩き続けた。
地区大会決勝までの数週間。俺たちは古びたジムにこもり、ひたすら「幻のカウンター」の反復練習に明け暮れた。相手の攻撃を紙一重で見切り、自らの体を極限の危険に晒す諸刃の剣。少しでもタイミングがずれれば、結衣の華奢な体は致命的なダメージを負う。
何度もやめさせようとした。だが、結衣は決して首を縦に振らなかった。
そして今日、俺たちは決戦の舞台に立っている。
地区大会決勝戦の会場となる市民体育館。その地下にある薄暗い控室で、俺は結衣の小さな拳にバンテージを巻いていた。
「きつくないか」
「ううん、ちょうどいい」
結衣の声は落ち着いていた。以前のように、試合前に過呼吸気味になることもない。手首から拳にかけて、白い布が幾重にも重なっていく。その感触を確かめるように、結衣はゆっくりと指を握り込んだ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「やあ、邪魔するよ」
ドアを開けて顔を出したのは、よれよれのスーツを着た矢島浩平だった。無精髭を撫でながら、飄々とした足取りでパイプ椅子に腰を下ろす。
「矢島さん。わざわざ控室まで?」
「決勝戦だからね。特等席で君たちの奇跡を見届けたくてね。それに、手土産もある」
矢島は内ポケットからタブレット端末を取り出し、画面を俺たちに向けた。再生されたのは、橘美咲の準決勝の映像だった。
リングの中央を陣取る美咲の動きには、一切の無駄がない。相手のパンチを最小限の動きで外し、氷のように冷たい表情のまま、正確無比なジャブを急所に打ち込んでいる。
「彼女、この大会でまだ一発もクリーンヒットをもらっていない。完璧なアウトボクシングだ。相手との距離をミリ単位で支配している」
矢島は画面をスクロールさせ、詳細なデータを開いた。
「特に左のリードジャブ。あれはただの牽制じゃない。相手の視界を塞ぎ、思考を奪うための凶器だ。君たちの秘密兵器が、あの鉄壁の要塞にどう立ち向かうのか。僕としては非常に興味深い」
「……わざわざプレッシャーをかけに来たんですか」
俺が苦笑すると、矢島は肩をすくめた。
「事実を伝えただけさ。でも、君の娘さんの瞳を見れば、そんな心配は無用だったみたいだね」
矢島の視線の先で、結衣はタブレットの画面をじっと見つめていた。その横顔に怯えはない。ただ静かに、獲物を狙うような鋭い光を宿している。
「じゃあ、リングサイドで待ってるよ。健一君、君の指導者としての真価、見せてもらうからね」
矢島はひらひらと手を振り、控室を出ていった。
静寂が戻った部屋で、俺は立ち上がり、古びたミットを両手にはめた。
「結衣、アップを始めるぞ」
「はい」
結衣が立ち上がり、軽くステップを踏む。キュッ、キュッとシューズが床を擦る音が、リズミカルに響いた。
「ワンツーから、左フック」
俺の指示に合わせて、結衣が踏み込む。
シュッ、パーン!
乾いた破裂音が、狭い控室に反響した。ミット越しに伝わる衝撃が、俺の肩口まで突き抜ける。以前よりも遥かに鋭く、重い。あのすり減ったスニーカーのつま先が生み出す特異なステップが、パンチに爆発的な推進力を与えているのだ。
「いいぞ。次はダッキングからの右」
結衣の体が滑るように沈み込み、下から突き上げるような右ストレートがミットに突き刺さる。
ズン、と鈍い音がした。俺は思わず数歩後ずさった。左腕の古傷ではない、結衣のパンチ力そのものが俺の腕の筋肉を悲鳴を上げさせている。
「父さん、大丈夫?」
結衣が動きを止め、心配そうに俺の腕を見た。
「ああ、問題ない。お前のパンチが重くなった証拠だ」
俺はミットを下ろし、結衣と正面から向き合った。
「結衣。美咲は強い。今まで戦ってきた相手とは次元が違う。もし、少しでも危ないと思ったら、無理にあのカウンターは狙うな。ガードを固めて、足を使って逃げろ。いいな」
俺の言葉に、結衣は真っ直ぐに俺の目を見返した。
「逃げないよ」
その声は小さかったが、確かな熱を帯びていた。
「私、もう逃げたくない。父さんが教えてくれたボクシングを、絶対に馬鹿にさせない。だから、絶対に勝つ」
かつて路地裏で泥にまみれ、震えていた少女の面影はどこにもない。そこには、一人のボクサーとしての確固たる覚悟があった。
俺は息を吐き出し、結衣の頭にポンと手を置いた。
「……わかった。お前の好きにしろ。俺はセコンドで、お前を全力でサポートする」
「うん」
結衣が力強く頷いたその時、控室のスピーカーから入場を促すアナウンスが流れた。
決戦の時だ。
俺たちは控室を出て、薄暗い通路を歩き出した。前方から漏れてくる眩い光と、地鳴りのような歓声が少しずつ近づいてくる。
ゲートを抜けると、視界が一気に開けた。
すり鉢状の観客席は満員で、熱気が肌を刺すように伝わってくる。リングの上には、すでに青コーナーの入場を待つ対戦相手の姿があった。
橘美咲。
均整の取れたアスリート体型。無駄のない動きでシャドーボクシングを繰り返す彼女の表情は、氷のように冷たく、感情の起伏を一切感じさせない。その背後には、腕を組んで鋭い視線を送る彼女の父親の姿があった。
因縁の相手。俺がかつて越えられなかった壁の、その娘。
結衣がリングサイドの階段を上り、ロープをくぐってリングに入る。会場の歓声が一段と大きくなった。
レフェリーに呼ばれ、リングの中央で二人が向かい合う。
美咲の冷徹な視線が、結衣を上から下まで値踏みするように舐める。
「……あなた、少しはマシな顔になったわね」
美咲の声は、相変わらず淡々としていた。
「でも、結果は同じよ。私の前では、どんな努力も無意味だと教えてあげる」
結衣は何も言い返さず、ただ静かに美咲を見据えていた。その瞳の奥で、静かな闘志の炎が揺れている。
レフェリーの注意事項が終わり、二人がそれぞれのコーナーに戻る。
俺は結衣のマウスピースを口に含ませ、その背中を両手で力強く叩いた。
「行ってこい」
結衣が振り返らずに頷き、リングの中央へ歩み出る。
会場全体が息を呑み、一瞬の静寂が訪れた。
カーン!
決戦のゴングが鳴り響いた。
その瞬間、美咲の体がブレた。
速い。先日のスパーリングの時とは比べ物にならないスピードで、美咲が距離を詰めてくる。結衣がステップを踏んで死角へ逃げようとするが、美咲はそれを先読みしたかのように、正確な左ジャブを放った。
シュッ!
鋭い風切り音とともに、美咲の拳が結衣の顔面を掠める。結衣の体がわずかに仰け反り、バランスを崩した。
そこに、美咲の容赦ない右ストレートが襲いかかる。
結衣は間一髪でガードを上げたが、その強烈な衝撃に体がロープ際まで弾き飛ばされた。
「結衣!」
俺はロープを掴み、叫んだ。
美咲の猛攻は止まらない。息をつく暇も与えず、左右の連打が結衣のガードを容赦なく削っていく。圧倒的なプレッシャー。完璧な技術。
結衣の猛特訓の成果は、この絶対的な王者の前に通用するのか。
ガードの隙間から見えた結衣の表情が、苦痛に歪む。
破り取られたノートの空白のページが、俺の脳裏に不吉な影を落とした。




