第3話
控室のドアを開けると、結衣がタオルで顔を拭いながら振り返った。
「父さん、遅かったね」
「ああ、ちょっと知り合いに捕まってな」
俺は左腕の痛みを隠すように、スポーツバッグを肩に掛け直した。結衣の瞳には、先ほどの勝利の興奮がまだ微かに残っている。
その日を境に、結衣の快進撃が始まった。
地区大会のトーナメント戦。素人同然だったはずの娘は、リングに上がるたびに別人のような動きを見せた。俺が教えたステップと防御の基礎を、彼女はスポンジのように吸収していく。
相手のパンチを紙一重で躱し、死角から的確な一撃を打ち込む。その姿は、かつて俺がリングで追い求めていた理想のボクシングそのものだった。
「いいぞ、結衣。その調子だ」
ジムでのミット打ち。俺の掛け声に合わせて、結衣の鋭いワンツーがミットに突き刺さる。パーン、という乾いた音が響くたび、俺の胸の奥で止まっていた時計の針が、少しずつ動き出すのを感じていた。
娘がいじめから身を守るために始めた特訓。それがいつしか、俺自身の失われた情熱を呼び覚ましていた。結衣が強くなるほど、俺たち親子の間には、言葉以上の確かな繋がりが生まれていく。
だが、順調な快進撃は、ある日突然、分厚い壁に阻まれることになった。
◆ーーーー◆
地区大会の準決勝を目前に控えた週末。権田会長の計らいで、強豪ジムとの合同練習が組まれた。
リングの対角線に立つその少女を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
橘美咲。
均整の取れたアスリート体型。無駄のない動きと、氷のように冷たく鋭い視線。彼女のセコンドに立つ男の顔を見て、俺の胃の奥が鉛のように重くなった。
橘竜二。俺の現役時代の最大のライバルであり、美咲の父親だ。
「まさか、お前の娘がボクシングをやっているとはな」
竜二は鼻で笑うように言った。俺は何も言い返せず、ただリング上の結衣を見つめた。
ゴングが鳴る。スパーリングとはいえ、実戦さながらの緊張感がジムを包んだ。
結衣はいつものように、すり減ったスニーカーのつま先を軸にして、独特のステップを踏む。相手の攻撃を誘い、カウンターを狙う戦法だ。
だが、美咲は動じなかった。
「……遅い」
美咲の淡々とした声が響いた直後。彼女の左ジャブが、見えない鞭のように結衣の顔面を捉えた。
「あっ……」
結衣の顔が弾かれ、ステップが乱れる。すかさず美咲が踏み込み、右ストレートをボディに突き刺した。
重く、鋭い一撃。結衣の体が「く」の字に折れ曲がり、ロープまで吹き飛ばされる。
「結衣!」
俺は思わず叫んだ。結衣は必死に体勢を立て直そうとするが、美咲のプレッシャーは異常だった。感情の起伏を一切感じさせない、機械のように正確で冷徹な連撃。
結衣の天性の当て勘も、変則的なフットワークも、美咲の洗練された基本技術の前には全く通用しなかった。
打たれる。防ぐ間もなく、また打たれる。
「あなたのボクシングは、ただの逃げね」
美咲の冷たい言葉と共に、強烈な左フックが結衣のガードをすり抜けた。
結衣がキャンバスに崩れ落ちる。レフェリー役の権田会長が、慌てて両手を交差させた。
スパーリング終了。圧倒的な実力差だった。
結衣は立ち上がれず、キャンバスに両手をついたまま肩を震わせていた。ポタポタと、透明な雫が床に落ちる。
いじめっ子を撃退した時も、デビュー戦で勝利した時も、彼女は決して泣かなかった。だが今、結衣は初めての巨大な挫折を前に、声を殺して泣きじゃくっていた。
◆ーーーー◆
夜のジム。他の練習生たちが帰った後も、結衣はリングの隅で膝を抱えて座り込んでいた。
俺は自販機で買ったスポーツドリンクを二つ持ち、彼女の隣に腰を下ろした。
「……ごめんなさい」
結衣が掠れた声で呟いた。
「私が弱かったから。父さんの教えが、通用しなかった」
彼女の言葉に、胸が締め付けられる。結衣が最も恐れているのは、自分が負けることで俺のボクシングを否定してしまうことなのだ。
俺は無言で左腕のジャージの袖を捲り上げた。
前腕から肘にかけて、どす黒い痣が広がり、湿布が何枚も貼られている。
結衣が息を呑んで顔を上げた。
「これ……どうしたの?」
「お前のパンチを受けた痕だ」
俺は静かに言った。
「俺の古傷が痛んでると思ってただろ。違う。お前のパンチが強すぎるんだ。たった数週間の特訓で、大人の腕をここまで痛めつける。そんな中学生がどこにいる」
結衣の瞳が揺れる。
「お前の才能は本物だ。美咲に負けたのは、お前が弱いからじゃない。俺がまだ、お前に戦うための『武器』を渡しきれていないだけだ」
俺はスポーツバッグから、一冊の古いノートを取り出した。
表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。俺が現役時代、血を吐くような思いで書き留めていたボクシングノートだ。
「これ……」
「俺のすべてだ。お前に託す」
結衣は震える手でノートを受け取り、ページをめくった。そこには、ステップの踏み方からパンチの軌道まで、びっしりと書き込みがされている。
だが、結衣の手がピタリと止まった。
「父さん……この最後のページ、破られてる」
彼女の言う通り、ノートの最終ページは根元から乱暴に引きちぎられていた。
「ああ。そこには、俺が怪我で引退して、結局完成させられなかった技術が書かれていた」
俺は結衣の肩を両手で強く掴んだ。
「『幻のカウンター』だ。明日から、それを完成させるための猛特訓を始める。お前は一人じゃない。俺がついている」
結衣はノートを強く胸に抱きしめ、小さく、だが力強く頷いた。
その瞳に、再び強い光が宿ったのを確認し、俺は立ち上がった。
しかし、俺の胸の奥には、冷たい不安が渦巻いていた。
あのページを破り捨てたのは、俺自身だ。
未完成のまま終わったあの技術は、相手の攻撃を紙一重で見切り、自らの体を極限の危険に晒すことで成立する、諸刃の剣。
もし失敗すれば、結衣の選手生命はおろか、日常の生活すら奪いかねない。
果たして、結衣はあのカウンターを習得できるのか。
破り取られた空白のページが、暗いジムの片隅で、不吉な口を開けて俺たちを待っているような気がした。




