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第2話

得体の知れない不穏な予感が、俺の胸の奥で静かに渦を巻いていた。


あの夜、堂本を撃退した結衣の拳。その感触は、俺の左腕に確かな痺れとして残っていた。ただの偶然ではない。彼女の内に眠る才能が、いじめという極限状態の中で目を覚ましたのだ。


その予感を裏付けるように、翌日から結衣の態度は劇的に変わった。


「お父さん、私……もっと強くなりたい。試合に出てみたい」


夕食の席で、結衣はまっすぐに俺の目を見てそう言った。今まで俯きがちだった彼女の瞳に、はっきりとした熱が宿っている。


俺は箸を止め、娘の顔を見つめ返した。護身のために教えただけのボクシング。まさか彼女自ら公式戦への出場を望むとは思っていなかった。リングに上がれば、当然相手からも殴られる。怪我のリスクもある。俺自身が怪我で夢を絶たれた過去があるからこそ、娘を危険な場所に立たせることには強い抵抗があった。


だが、結衣の表情は真剣だった。理不尽な暴力に怯えるだけの自分と決別しようとしている。その意志を、俺が摘み取っていいはずがない。


「……わかった。ただし、俺の言うことを絶対に聞くこと。それが条件だ」


「うん! ありがとう、お父さん」


結衣の顔に、久しぶりに明るい笑顔が咲いた。


こうして、俺と結衣の本格的な二人三脚の特訓が始まった。権田会長の好意でジムを借り、毎日ミットを構えた。結衣の吸収力は凄まじかった。教えた防御の技術を、彼女はスポンジのように吸い込んでいく。


◆ーーーー◆


数ヶ月後。迎えた地区大会の予選。結衣のデビュー戦当日。


計量会場の控室は、選手たちの放つピリピリとした緊張感で満ちていた。独特の匂いと熱気に当てられたのか、結衣は少し肩をすくめ、パイプ椅子にちょこんと座っている。


「おい、アンタが沢田結衣?」


不意に、頭上から刺々しい声が降ってきた。


見上げると、金髪のショートヘアに鋭い三白眼をした少女が立っていた。対戦相手の神崎レナだ。年齢は結衣より少し上の十六歳。ヤンキー気質の彼女は、小柄で大人しそうな結衣をあからさまに見下していた。


「ぽっと出の素人が、アタシのリング舐めてんじゃないわよ。お遊びで勝てるほど甘い世界じゃないんだから」


神崎は鼻で笑い、結衣の顔を覗き込む。


「どうせまた泣いて逃げるんだろ? 痛い目見たくなかったら、今のうちに棄権しな」


結衣の肩がビクッと跳ねた。俯き、膝の上で両手をきつく握りしめている。いじめられていた過去の記憶がフラッシュバックしているのかもしれない。


俺は立ち上がり、神崎と結衣の間に割って入った。


「挑発はリングの上だけにしておけ。試合前だぞ」


「チッ……過保護なセコンドだこと」


神崎は忌々しそうに舌打ちをすると、踵を返して自分の陣営へ戻っていった。


「結衣、大丈夫か」


俺はしゃがみ込み、結衣の目線に合わせて声をかけた。


「……うん。ちょっとびっくりしただけ」


結衣は無理に笑顔を作ろうとしたが、その声は微かに震えていた。


「気にするな。相手は自分を大きく見せようとしているだけだ。お前は、お前のステップを信じろ。今まで俺とやってきたことを、そのまま出せばいい」


俺は結衣の肩に両手を置き、力強く頷いた。


「……はい。お父さん」


結衣が顔を上げる。その瞳の奥に、再び静かな闘志が灯るのを確認し、俺は安堵の息を吐いた。


◆ーーーー◆


リングサイドの照明が、キャンバスを眩しく照らし出している。


ゴングが鳴り響いた瞬間、神崎は猛然とダッシュしてきた。


「死ねぇ!」


荒削りだが、野性的な勘とパワーに溢れた右フックが、結衣の顔面を襲う。


だが、結衣の姿はそこにはなかった。


滑るように膝を抜き、上体を沈み込ませてから、バネのように斜め前へ踏み込む。あの夜に見せた特異なステップは、数ヶ月の特訓を経てさらに鋭さを増していた。かつていじめっ子から逃げ回る中で培われた泥臭い回避術が、今やリングの上で、相手の死角を突く洗練されたフットワークへと昇華されているのだ。


神崎の拳は空を切り、勢い余って体勢が崩れる。


「なっ……!?」


神崎が振り返ったときには、結衣はすでに彼女の死角に回り込んでいた。


「よく見て、避ける。無理に打ち返す必要はない」


俺の教えを忠実に守り、結衣はガードを高く上げたまま、神崎の周囲を円を描くように移動する。


神崎は苛立ちを募らせ、さらに大振りのパンチを振り回してきた。左ジャブ、右ストレート、左フック。しかし、そのどれもが結衣を捉えることはできない。


結衣は相手の肩の動き、視線、足の運びを冷静に観察し、パンチが届く数センチ手前で体を躱していく。紙一重の回避。それは、土砂降りの雨の中で一滴の雨粒にも濡れずに踊り続けるような、異様な光景だった。


観客席から、どよめきが起こり始める。


「なんだあの動き……」


「全然当たってないぞ。あの子、本当にデビュー戦か?」


神崎の息が上がり始めている。空振りを繰り返すことは、体力を著しく消耗させる。


「ちょこまかと……逃げてばっかじゃねえか!」


神崎が叫んだ。


その言葉が、結衣の逆鱗に触れた。


結衣の目の色が、スッと冷たくなる。いじめられ、ただ逃げ回るだけだった過去の自分。その無力な自分を馬鹿にされたように感じたのだろう。


神崎が、渾身の力を込めた右ストレートを放つ。


結衣は逃げなかった。


ダッキングで右ストレートを躱した瞬間、結衣の右足がキャンバスを強く蹴った。


天性の当て勘。相手の力が最も前へ乗った瞬間、その力を利用して死角からコンパクトに打ち抜く。


パーン!


乾いた破裂音が、会場全体に響き渡った。


結衣の右ストレートが、神崎の顎の先端を完璧に捉えていた。


脳を揺らされた神崎は白目を剥き、糸が切れた操り人形のように、膝からキャンバスに崩れ落ちた。


レフェリーが慌てて割って入り、カウントを始める。しかし、神崎の意識は完全に飛んでおり、立ち上がる気配は微塵もなかった。


「テン! アウト!」


レフェリーが両手を交差させる。


一ラウンド、一分十二秒。結衣のKO勝利。


衝撃的な結末に、会場は一瞬水を打ったように静まり返り、やがて割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。


結衣は自分の拳を見つめ、それから俺の方を振り返って、満面の笑みを浮かべた。


◆ーーーー◆


試合後、控室へ向かう薄暗い通路を歩いていると、不意に声をかけられた。


「見事な試合でしたね、沢田さん」


振り返ると、よれよれのスーツを着た無精髭の男が立っていた。スポーツ記者の矢島浩平だ。俺が現役だった頃から、よく取材に来ていた男だ。


「……矢島さん。お久しぶりです」


「ええ。まさか、あなたの娘さんがリングに上がるとは、僕も思っていませんでしたよ。しかも、あんな衝撃的なデビューを飾るとは」


矢島は飄々とした口調で言いながら、手帳に何かを書き込んでいる。


「彼女の動き……特にあのステップからのカウンター。現役時代のあなたを彷彿とさせますね。いや、それ以上かもしれない。あの当て勘は、教えられて身につくものではないでしょう」


矢島の鋭い観察眼に、俺は内心で舌を巻いた。


「買い被りですよ。あいつはまだ、素人に毛が生えたようなもんです。たまたまパンチが当たっただけですよ」


俺は適当に誤魔化し、足早に矢島の前から立ち去った。


控室のドアの前まで来ると、俺は周囲に誰もいないことを確認し、そっと左腕の袖を捲り上げた。


ミット打ちの時から感じていた、左腕の痺れ。


結衣のパンチを受けるたびに、その衝撃は確実に俺の腕に蓄積されていた。


バッグから氷嚢を取り出し、こっそりとアイシングをする。


ズキズキと疼くような痛み。


矢島は俺の現役時代に似ていると言った。だが、俺は知っている。結衣の才能は、俺の未完成だった技術を遥かに超えようとしている。


たった一発のパンチで、大人の腕をここまで痛めつけるほどの威力。


この痛みが意味するものは、俺の古傷が疼いているだけなのか。それとも、結衣の放つ力が、俺の想像を絶する領域に達している証拠なのか。


控室の中から、結衣の弾むような声が聞こえてくる。


俺は痛みに顔をしかめながら、冷たい氷を腕に押し当て続けた。結衣の才能がどこまで伸びるのかという期待と、それがもたらすかもしれない未知の危険への恐怖。


氷の冷たさとは別の悪寒が、背筋をゆっくりと這い上がっていくのを感じていた。


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