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第1話

運送会社のトラックを駐車場に停め、汗ばんだ作業着のままアパートの外階段を上る。


玄関のドアを開けると、薄暗い三和土に結衣の靴が脱ぎ捨てられていた。


普段は几帳面な娘が、こんな乱雑な脱ぎ方をするなんて珍しい。靴を揃えようと手を伸ばしたとき、ふと違和感に気づいた。


白いスニーカーのつま先部分だけが、異常にすり減っているのだ。


かかとは綺麗なままなのに、前半分だけが削れたように薄くなっている。アスファルトに強く擦り付けたような、不自然な摩耗だった。


最近の結衣は、どこか様子がおかしかった。


夕飯のときも俯きがちで、口数が極端に減っている。妻を亡くしてから、男手一つで育ててきた大切な娘だ。胸の奥に、冷たい泥水が流れ込むようなざわつきを覚えた。


いじめに遭っているのではないか。


そんな嫌な想像を振り払うように、俺は首を振った。明日、ゆっくり話を聞いてみよう。そう自分に言い聞かせ、俺は作業着のジッパーを下ろした。


翌日の夕方。配達ルートの途中にある見慣れた路地裏を通りかかったとき、俺はトラックのブレーキを踏んだ。


ブロック塀に押し付けられるようにして立っている小柄な背中。結衣だった。


彼女を取り囲んでいるのは、体格の良い中学生の男子だ。


「てめえ、また逃げるのかよ。ダサいんだよ」


堂本翔。近所でも素行の悪さで有名な中学生だ。結衣の制服のスカートには、泥水のような黒い汚れがべったりと付着していた。


堂本が薄ら笑いを浮かべながら、結衣の肩を小突く。


結衣は抵抗もせず、ただ怯えたように肩をすくめている。俺はトラックを飛び降り、足早に路地裏へ向かった。


「何をしている」


低く声をかけると、堂本は振り返って舌打ちをした。


「チッ……なんだよ、親父かよ。過保護だな」


堂本は俺の体格を見て少し怯んだのか、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。


「今日はこれくらいにしといてやるよ。じゃあな、逃げ足だけは一人前の結衣ちゃん」


堂本が去った後、結衣はその場にへたり込んだ。


「結衣、怪我はないか」


俺が手を伸ばすと、結衣は顔を覆って泣き崩れた。


「お父さん……私、強くなりたい……」


絞り出すような声だった。


理不尽な暴力に怯え、自尊心を奪われた娘の涙。俺は自分の無力さを噛み締めた。あの時、怪我でリングを降りた日と同じだ。大切なものを守れない不甲斐なさが、胸を締め付ける。


週末。俺は結衣を連れて、隣町にある古い建物へ向かった。


シャッターの半分閉まった、寂れたボクシングジム。


俺がかつて青春のすべてを捧げ、そして夢を諦めた場所だ。重い鉄扉を開けると、カビと汗の染み付いた懐かしい匂いが鼻を突いた。


「おや、健一じゃないか。久しぶりだな」


リングの脇でサンドバッグを磨いていた白髪の男が振り返る。かつての恩師、権田源三だ。首にかけたタオルで汗を拭いながら、豪快に笑う。


「会長……ご無沙汰してます。今日は、娘に少しだけボクシングを教えさせてほしくて」


俺は事情を短く説明した。


あくまで護身術だ。いじめっ子から身を守るための、最低限の動きだけを教えるつもりだった。権田は結衣をじっと見つめ、「好きに使え」とだけ言った。


俺は古びたミットを両手にはめ、結衣と向き合う。


「いいか結衣。相手の動きをよく見て、避けるんだ。無理に打ち返す必要はない」


結衣は頷き、見よう見まねで両手を顔の前に上げた。


俺はゆっくりと、結衣の顔の横を狙って左のジャブを放つ。その瞬間だった。


結衣の体が、滑るように沈み込んだ。


つま先を軸にして、鋭く斜め前へ踏み込む。あの異常にすり減ったスニーカーのつま先。いじめっ子から逃げ回る中で、彼女は無意識のうちに、相手の攻撃を見切り、瞬時に死角へ逃げ込む特異なステップを身につけていたのだ。


そして、結衣の右拳が、俺の構えたミットのど真ん中に吸い込まれた。


パーン!


乾いた破裂音が、静かなジムに響き渡る。俺は息を呑んだ。ただの偶然じゃない。完璧なタイミングと、天性の当て勘だった。


「おいおい、こんなボロジムに逃げ込んでたのかよ」


入り口から、下品な笑い声が響いた。堂本だった。取り巻きの男子生徒を二人連れている。結衣の後をつけてきたのだろう。


「お前なんかにボクシングができるわけがない。どうせまた泣いて逃げるんだろ」


堂本はリングを見上げ、嘲笑した。


結衣の肩がビクッと震える。俺が間に入ろうとしたとき、結衣が一歩前に出た。


「お父さんから教わったことを、馬鹿にしないで」


震える声だったが、その瞳には強い光が宿っていた。


堂本は鼻で笑い、壁際に転がっていた古いグローブを勝手にはめる。


「アマチュア経験者の俺が、少し遊んでやるよ。リングに上がれよ」


俺は止めるべきだと口を開きかけた。だが、権田が俺の肩をポンと叩く。


「やらせてみろ。あの子の目は、死んじゃいない」


結衣はロープをくぐり、リングの中央へ進み出た。堂本がニヤニヤと笑いながら近づく。


「怪我しても泣くなよ」


堂本が、大振りの右フックを振り回した。


中学生とはいえ、体格差は歴然だ。まともに貰えばただでは済まない。だが、結衣は怯まなかった。


堂本の拳が届く直前、結衣はあの特異なステップで深く沈み込んだ。


堂本の腕が空を切り、彼の体勢が大きく崩れる。結衣は堂本の脇をすり抜け、完全に死角へ回り込んでいた。


そして、コンパクトに振り抜かれた結衣の右ストレートが、堂本の顎の横を正確に捉えた。


「ぐっ……!」


堂本はたたらを踏み、そのまま尻餅をついた。取り巻きたちが息を呑む。


「な、なんだと……」


堂本は信じられないものを見るような目で結衣を見上げ、恐怖と屈辱に顔を歪めた。


「て、てめえ……覚えてろよ!」


堂本はグローブを投げ捨て、取り巻きたちと一緒に逃げるようにジムを出て行った。


静まり返ったジムの中。結衣は、自分の小さな拳をじっと見つめていた。


「お父さん……私、できたよ」


結衣が振り返り、少しだけ誇らしげに微笑む。


「ああ。よくやったな、結衣」


俺は優しく頷きながら、ミットを外した左腕を背後に隠した。


ジンジンと痺れる腕の感覚。あとでこっそり、氷でアイシングしなければならないだろう。たった一発のパンチで、大人の腕をここまで痺れさせるほどの威力。


あの特異なステップと、天性の当て勘。


結衣が見せた才能は、果たして実戦で通用する本物なのだろうか。俺の教えが、この子をどこへ連れて行くのか。得体の知れない不穏な予感が、俺の胸の奥で静かに渦を巻いていた。


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