第18話
大会から数日後の沢田家。
右腕を吊るす白い三角巾が、やけに重く感じられた。
ギプスで厳重に固定された腕は、鈍い痛みを絶えず主張してくる。だが、それ以上に胸の奥に居座る鉛のような重苦しさが、俺から言葉を奪っていた。
「あなた、お茶が入ったわよ」
キッチンから真由美の声がする。彼女は努めて明るい声を出そうとしているのがわかった。テーブルに置かれた湯呑みからは、白い湯気が細く立ち上っている。
「ああ、すまない」
俺は左手で不器用に湯呑みを引き寄せた。一口すするが、味などまったくわからない。
リビングの時計が、カチカチと無機質な音を刻んでいる。普段なら、学校での出来事を楽しそうに話す結衣の声が響いている時間だ。しかし今、この家を支配しているのは息が詰まるような沈黙だった。
結衣はあの日以来、自室に引きこもったままだ。
食事もほとんど手をつけていない。真由美がお盆に乗せて部屋の前に運んでいるが、数時間後に下げられる皿には、冷めきったおかずがそのまま残されている。
「結衣の様子は……どうだ」
「さっき声をかけたけど、返事はなかったわ。でも、お水は少し飲んでくれたみたい」
真由美は無理に微笑みを作ったが、その目元には色濃い疲労が滲んでいた。俺の怪我と、娘の引きこもり。彼女にどれほどの負担をかけているか、考えるだけで胃が締め付けられる。
俺のせいだ。
娘を救いたい一心で始めたはずだった。だが、俺は自分の果たせなかった夢を、無意識のうちに結衣に押し付けていたのではないか。結果として、彼女の心に決定的な傷を負わせてしまった。
インターホンの電子音が、重い空気を切り裂いた。
真由美がエプロンで手を拭きながら玄関へ向かう。少しして、控えめな足音とともにリビングに姿を見せたのは、星野くるみだった。
「お邪魔します……」
おさげ髪の小柄な少女は、俺の吊られた右腕を見て一瞬だけ肩をビクッと震わせた。彼女の手には、学校のプリントが挟まれたクリアファイルが握られている。
「くるみちゃん、わざわざごめんなさいね。プリント、届けてくれたの?」
「はい。あの、結衣ちゃん……具合はどうですか?」
くるみは不安げに視線をさまよわせた。彼女もまた、あの日アリーナの観客席で、結衣が無惨に打ちのめされる姿を見ていた一人だ。
「熱があるわけじゃないんだけどね。少し、疲れが出ちゃったみたいで」
真由美の言葉に、くるみは小さく頷いた。そして、決意を固めたように顔を上げる。
「私、結衣ちゃんに会えませんか? ドア越しでもいいので、少しだけ声を聞きたくて」
真由美は困ったように俺を見た。俺は無言で頷く。親友のくるみの声なら、結衣の閉ざされた心に届くかもしれない。そんな淡い期待があった。
真由美に案内され、くるみは二階にある結衣の部屋へと続く階段を上っていった。俺も少し離れたところから、その後ろ姿を見守る。
「結衣ちゃん」
くるみは、閉ざされた木製のドアに向かって、そっと声をかけた。
「私だよ、くるみ。学校のプリント、持ってきたよ」
ドアの向こうからは、何の反応もない。
「結衣ちゃん……大丈夫? 私、ずっと心配で……」
くるみの声が少し震え始める。彼女は両手でクリアファイルを胸に抱きしめ、ドアに顔を近づけた。
「試合のこと、気にしないで。結衣ちゃんはすごく頑張ってた。私、結衣ちゃんがリングに立ってる姿、本当にかっこいいって思ったよ。だから……」
「帰って」
くぐもった、しかしはっきりとした拒絶の声が、ドアの向こうから響いた。
くるみの肩が跳ねる。
「結衣ちゃん……?」
「お願いだから、帰って。もう誰とも会いたくないの」
感情の抜け落ちたような、平坦で冷たい声だった。かつていじめに怯え、俯いていた頃の結衣よりも、さらに深く暗い場所に沈み込んでしまったような響き。
「そんなこと言わないでよ……。私、結衣ちゃんとまた一緒に学校に行きたい。一緒に帰って、また笑って……」
「ごめんなさい」
結衣の声が、くるみの言葉を遮った。
「もう、放っておいて」
それきり、ドアの向こうは再び深い沈黙に包まれた。
くるみは唇を噛みしめ、ポロポロと涙をこぼした。彼女はドアノブに手を伸ばしかけたが、結局それに触れることはできず、力なく手を下ろした。
「ごめんなさい……おばさん、私、帰ります」
階段を下りてきたくるみは、真由美に深く頭を下げた。俺は玄関まで彼女を見送ったが、かけるべき言葉が見つからなかった。
「おじさん」
靴を履き終えたくるみが、振り返って俺を見た。赤く腫れた目で、俺の右腕をじっと見つめている。
「結衣ちゃんを、助けてあげてください。あんなの、結衣ちゃんじゃないです」
涙声でそう言い残し、くるみは走り去っていった。
◆ーーーー◆
その日の夜。
家の中はすっかり寝静まっていた。真由美も疲れ果てて寝室で休んでいる。俺は一人、暗い廊下を歩き、結衣の部屋の前に立った。
ドアの隙間からは、光は漏れていない。
俺は左手をドアに当て、深く息を吐いた。
「結衣。起きているか」
返事はない。だが、微かに衣擦れの音が聞こえた。起きているはずだ。
「少しだけ、話を聞いてくれ」
俺はドア越しに語りかけた。言葉を選びながら、ゆっくりと。
「くるみが来てくれたのに、あんな態度をとるのはよくない。あの子は、本当にお前のことを心配してくれているんだ」
静寂。
「それに……お母さんもだ。お前がご飯を食べないから、ずっと気を揉んでいる。俺のことはどうでもいい。だが、周りの人間を悲しませるようなことは……」
「お父さんのせいだよ」
突然、ドアの向こうから声が飛んできた。
刺々しく、震える声。
「お父さんが、そんな腕になったから……」
「結衣、これは」
「私のせいだよね!」
結衣の叫び声が、静かな廊下に響き渡った。
「私が、お父さんの腕を壊したんだ! 私のパンチが強すぎたから、お父さんの古傷が悪化したんでしょ!? ずっと痛かったのに、私に隠してミットを受けてたんでしょ!」
俺は息を呑んだ。
結衣はすべてを理解していた。自分の放った拳が、少しずつ父親の腕を破壊していったという事実を。
「違う、結衣。これは俺が勝手に無理をしただけだ。お前のせいじゃない。俺が、指導者として失格だったんだ」
「嘘だよ!」
ドン、とドアが内側から叩かれた。
「嘘つき! お父さんはいつもそうやって、私を庇う! でも、本当はわかってる。私がボクシングなんてやらなければ、お父さんはこんな怪我しなかった!」
ドアの向こうから、激しい嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「私、もう二度とボクシングはしない」
その言葉は、俺の胸に鋭い刃のように突き刺さった。
「結衣……」
「お父さんを傷つけるくらいなら、弱いままでよかった。いじめられて、泣いてるだけのほうがマシだった! ボクシングなんて、大嫌い!」
泣き叫ぶ娘の声が、俺の心を容赦なく切り裂いていく。
「お願いだから、もう私に構わないで。ボクシングの話も、二度としないで……」
ドアの向こうで足音が遠ざかり、ベッドの軋む音が聞こえた。
俺はドアに当てていた左手を、ゆっくりと下ろした。
何を言えばいいのか、わからなかった。
「お前のせいじゃない」という言葉は、今の彼女にはただの気休めにすらならない。俺が腕を吊っている限り、その姿自体が結衣を責め続けるのだ。
俺は、娘に自信を取り戻してほしかっただけだ。
理不尽な暴力に怯えることなく、自分の足でしっかりと立って歩いてほしかった。そのために、封印していた過去を掘り起こし、再びミットを構えた。
だが、結果はどうだ。
俺は娘に、いじめよりも深く、取り返しのつかない傷を負わせてしまった。
暗い廊下で、俺はただ立ち尽くしていた。
ドアの向こうで泣き続ける娘に、手を差し伸べることすらできない。
俺たちがボクシングを通じて築き上げてきた絆は、音を立てて崩れ去っていた。
ギプスで固められた右腕が、ズキリと痛む。
この痛みがある限り、結衣は二度と前を向くことはないのかもしれない。
冷たい床の冷気が、足元から這い上がってくる。
俺は自分の無力さに打ちのめされながら、ただ静かな絶望の中に沈んでいくしかなかった。




