第17話
係員たちの強い力に抗うこともできず、俺は薄暗い通路へと引きずり込まれた。
右腕は肩から指先まで、焼け火箸を突っ込まれたような激痛が走っている。脈打つたびに、筋肉が内側から破裂するような錯覚に襲われた。額から脂汗が吹き出し、視界がぐらぐらと揺れる。
だが、それ以上に胸を締め付けていたのは、リングに残してきた娘の姿だった。
「離せ……戻らなきゃならないんだ。あいつには、俺が……!」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。係員の靴音がコンクリートの床に響く。
無理やり押し込まれたのは、冷たい蛍光灯に照らされた医務室だった。消毒液のツンとした匂いが鼻を突く。簡易ベッドに背中から倒れ込むと、すぐさま大会ドクターが駆け寄り、俺のジャージの袖を医療用ハサミで切り裂いた。
露わになった右腕を見て、ドクターが息を呑む気配がした。
「これは……ひどい。完全に赤黒く変色している」
皮膚の下で、筋肉が異様な形に歪んでいた。ドクターは震える手で俺の腕に触れようとする。わずかな接触だけで、脳天を突き抜けるような痛みが走った。
「暴れないでください! 筋繊維が完全に断裂しています。これ以上動かせば、神経まで取り返しのつかないことになりますよ!」
ドクターの警告が耳を滑っていく。
俺は左手でベッドの縁を掴み、無理やり上体を起こそうとした。
その肩を、分厚い手が力強く押さえつけた。
「馬鹿野郎、大人しくしてろ!」
権田会長だった。いつの間にか医務室に入ってきていたらしい。普段の豪快な笑みは消え失せ、険しい表情で俺を睨みつけている。
「会長、どいてください。結衣が……あいつが一人で戦ってるんです!」
「お前が戻って何になる。今のその腕で、ミットを受けられるのか。タオルを投げられるのか」
「だけど……そばにいてやらなきゃ……」
「お前がそばにいたら、あいつは余計に苦しむだけだ。自分のパンチが親父を壊したって事実を、目の前で見せつけられるんだぞ」
権田会長の言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
言い返そうとした俺の視界に、見慣れた女性の姿が飛び込んできた。
仕事を抜け出して応援に駆けつけていた真由美だった。彼女は青ざめた顔で、俺の腫れ上がった右腕を見つめている。
「あなた、お願いだから……もうやめて」
真由美の声は震えていた。両手で顔を覆い、肩を震わせている。
彼女は俺が現役時代に怪我で引退したとき、誰よりもそばで苦しみを分かち合ってくれた。また同じように、ボクシングで体を壊す俺を見るのがどれほど辛いか。
「結衣ちゃんだって、あなたが壊れていくのを見たくないはずよ。だから……」
俺は反論できず、左手でシーツを握りしめた。
無力感が、冷たい泥水のように胃の奥へ流れ込んでくる。
俺が娘を救うはずだった。いじめから守るために、自信を取り戻させるために、ボクシングを教えた。それなのに、結局は家族を傷つけているだけではないか。
ふと、壁に掛けられた小さなモニターが目に入った。
アリーナの固定カメラが、リングの様子を映し出している。
最終ラウンドが始まっていた。
壁越しに、実況のアナウンスが微かに聞こえてくる。
『さあ、最終ラウンド! 青コーナーの沢田、セコンドが不在のままリング中央へ向かいます!』
画面の中の結衣は、ステップを踏んでいなかった。
両腕をだらりと下げ、ただ相手の正面に立ち尽くしている。
赤コーナーの優勝候補が、容赦なく距離を詰める。鋭い左ジャブが結衣の顔面を跳ね上げた。
防御すらしない。
避けることもしない。
『沢田選手、手が出ない! どうしたことか、まるで別人のようにサンドバッグ状態です!』
「結衣……何やってる、動け!」
モニター越しに叫ぶ俺の声を、実況の無情なアナウンスが掻き消した。
相手の右ストレートが、結衣のボディに深々と突き刺さる。くの字に折れ曲がる小さな体。
右に回ればかわせる。左のフックを合わせられる。俺の目には、相手の隙がはっきりと見えていた。結衣の才能なら、造作もなくカウンターを叩き込めるはずのタイミングだ。
だが、結衣は倒れなかった。
ただ、虚無の表情で打たれ続けている。
俺にはわかっていた。彼女は、パンチを打つことができないのだ。
自分の拳が、父親の腕を破壊した。その残酷な事実が、彼女の心に重い鎖を巻きつけている。
バンテージに巻かれた自分の拳が、凶器にしか見えていないのだろう。
打てばまた誰かを壊してしまう。
そんな恐怖と罪悪感が、彼女から一切の反撃の意志を奪っていた。
「やめろ……もうやめてくれ……!」
俺は呻き声を上げた。
相手の容赦ない連打が、サンドバッグのように結衣を打ち据える。
かつて路地裏でいじめっ子に囲まれ、ただ耐えることしかできなかったあの頃の姿が重なった。
ボクシングを教えたのは、あんな理不尽な暴力から身を守るためだったはずだ。
それなのに、俺が教えたボクシングが、俺の怪我が、彼女を再びあの暗闇に引きずり戻してしまった。
俺が無理をしてミットを持ち続けたからだ。俺が自分の夢を娘に重ねてしまったからだ。
「……行かせてくれ」
俺はドクターの制止を振り払い、ベッドから転げ落ちた。
床に膝をつきながらも、左手で壁を伝って立ち上がる。
「健一!」
権田会長が止めようと手を伸ばす。
だが、俺はそれをすり抜け、医務室のドアに体当たりした。
廊下に出ると、アリーナからどよめきと悲鳴が入り混じった歓声が聞こえてきた。
足がもつれ、何度も壁に肩をぶつけながら走る。
右腕の激痛で視界が明滅する。
一歩踏み出すごとに、脳髄が揺れる。
古びたジムでの特訓の日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
初めてミットを叩いた日の、驚きに満ちた結衣の顔。もっと強くなりたいと、真っ直ぐな瞳で言った夜。二人で流した汗。共有した夢。
それがすべて、俺の右腕とともに砕け散ってしまったのか。
血の味が口の中に広がる。息が上がり、肺が焼け付くように痛む。
それでも、這ってでもあの場所へ戻らなければならなかった。
アリーナへの入り口のカーテンを、左手で乱暴に引き剥がす。
眩い照明が目に突き刺さった。
観客席からは、容赦ない野次が飛んでいた。
「なんだよあの試合、全然手を出してないじゃないか!」
「期待外れもいいとこだな」
無責任な声が、俺の耳を打つ。
何も知らないくせに。あいつがどれだけのものを背負ってあのリングに立っていたか、誰一人としてわかっていない。
怒りが湧き上がるが、それをぶつける先はない。
すべては俺の責任なのだから。
その直後だった。
試合の終了を告げるゴングが、無機質に鳴り響いたのは。
俺は通路の出口で立ち尽くした。
リングの中央。
主審が両腕を交差させ、試合を止めている。
そして、青コーナーのキャンバスに、結衣がゆっくりと崩れ落ちていくところだった。
スローモーションのように、小さな体がマットに沈む。
「結衣……」
俺はロープ際までよろけ歩き、冷たいエプロンサイドに左手をついた。
仰向けに倒れた結衣の顔が見える。
口元から一筋の血が流れ、頬は赤く腫れ上がっていた。
だが、彼女は痛みに顔を歪めることも、悔し涙を流すこともしていなかった。
ただ、虚ろな瞳で、天井の照明を見つめている。
光を失ったガラス玉のような瞳。
その瞳の奥には、闘志も、悲しみも、何も残っていなかった。
結衣の虚ろな瞳がゆっくりと動き、だらりと垂れ下がった俺の右腕を捉えた。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ、静かに目を閉じただけだ。
歓喜に沸く赤コーナーの陣営。
拍手と歓声がアリーナを包み込んでいる。
だが、俺たちの周りだけが、恐ろしいほどの静寂に沈んでいた。
結衣の心は完全に折れた。
全国大会は、これ以上ないほど最悪の形で幕を閉じた。
俺の腕を壊したという罪悪感と、無惨な敗北。
冷たいキャンバスに横たわる娘の姿を見下ろしながら、俺はただ、自分の無力さに絶望することしかできなかった。
この深く暗い底から、俺たちは再び立ち上がることができるのだろうか。
静かな不安だけが、胸の奥で黒い染みのように広がっていった。




