第16話
ついに次戦のリングへ向かう。
しかし、俺の腕はすでに悲鳴を上げていた。
控室から続く薄暗い通路を歩きながら、俺は右腕の感覚を確かめようと指先を動かした。
だが、応答はない。まるで分厚いゴム手袋越しに物に触れているような、ひどい麻痺が広がっていた。
前を歩く結衣の背中は、闘志に満ちている。
彼女は俺の異変に気づいていない。気づかせるわけにはいかなかった。
入場ゲートを抜けると、眩いカクテル光線が視界を白く染め上げた。
アリーナを埋め尽くす観客のざわめきが、ドーム状の天井に反響して耳鳴りのように降り注いでくる。
全国大会の次戦。青コーナーの階段を上る結衣の表情は、これまでにないほど硬かった。
対角線上の赤コーナーに立つのは、矢島が警戒していた関西シード校のエースだ。
均整の取れた体格と、無駄のない動き。リング中央でシャドーを行うその姿からは、圧倒的な自信と威圧感が漂っている。
結衣はキャンバスを踏みしめ、深く息を吐き出した。
ゴングが鳴り響く。
結衣は鋭く踏み込み、牽制の左ジャブを放った。
だが、相手は微かに顎を引くだけでそれを躱し、即座に重い右フックを返してくる。
結衣が息を呑み、上体を沈めて回避する。
相手の攻撃を見切り、瞬時に死角へ逃げ込む特異なステップ。
しかし、相手はそれを見越したように退路を塞ぎ、的確な左ボディブローを突き刺した。
「ぐっ……」
結衣の顔が苦痛に歪み、足が止まる。
すかさず相手の右ストレートが顔面を掠め、結衣の身体が大きくよろめいた。
俺はロープを掴み、身を乗り出した。
「足をとめるな! 左右に散らして的を絞らせるな!」
声を張り上げるが、指示通りに動く余裕が彼女にはない。
相手のプレッシャーは凄まじかった。洗練されたポジショニングと、滑らかな体重移動。
結衣がどこへ逃げようとも、常に先回りしてパンチの軌道上に彼女を閉じ込めている。
彼女の天賦の才を、圧倒的な経験値と基本技術の差で完全にねじ伏せようとしていた。
ロープ際に追い詰められ、ガードの上から容赦ない連打を浴びる。
結衣の白い頬が赤く腫れ上がり、呼吸が乱れていくのがわかった。
俺は左手でロープを強く握りしめた。
右腕は、だらりと腰の横に垂れ下がったままだ。
感覚が抜け落ち、指先は氷のように冷たい。肩の奥で、鈍い痛みが脈打つように広がっている。
助け舟を出したくても、俺には声を出すことしかできない。
もどかしさと無力感が、胃の奥を冷たくしていく。
第2ラウンド終了のゴングが、救いのように鳴り響いた。
結衣が重い足取りでコーナーへ戻ってくる。
丸椅子に座り込んだ彼女は、肩で激しく息をしていた。
俺は素早くマウスピースを外し、スポイトで水を含ませる。
冷たい水を飲み込んでも、彼女の呼吸は一向に整わない。
「焦る必要はない。相手の動きは単調になりつつある。打ち終わりに必ず隙ができるはずだ」
「……うん」
結衣の返事はひどく弱々しかった。
瞳の奥で、不安が渦巻いている。これほど一方的に攻め込まれたのは初めての経験だ。
額の汗をタオルで拭いながら、俺は彼女の視線を受け止めた。
ここで気持ちが折れれば、最終ラウンドは持たない。闘志を呼び覚ます必要がある。
俺は深く息を吸い込み、努めて力強い声を出した。
「お前ならやれる。自分を信じろ。今までやってきたことを思い出すんだ」
気合いを入れるため、両手で彼女の頬を軽く叩こうとした。
左手を上げる。
そして、右手を——。
脳からの命令が、肩のあたりで完全に遮断された。
他人の肉体を縫い付けられたかのように、右腕がピクリとも動かない。
「え……?」
俺の喉から、間の抜けた声が漏れた。
次の刹那、右腕が不自然な角度で激しく痙攣を始めた。
筋肉が勝手に収縮し、波打つように震える。
指先の力が完全に抜け、握っていたミットが力なく床へ転がり落ちた。
鈍い音が、歓声の隙間を縫って響く。
結衣がハッと息を呑み、俺の右腕を見つめた。
異変に気づいた大会ドクターが、すぐさまロープをくぐって駆け寄ってきた。
「どうしました、セコンド! 腕を見せてください」
「いや、なんでもない。少し筋肉が攣っただけで……」
俺は左手で右腕を庇おうとした。
だが、ドクターは強引に俺のジャージの袖をまくり上げた。
あらわになった右腕を見て、ドクターが息を呑む。
前腕から上腕にかけて、皮膚の下が赤黒く変色し、異様に腫れ上がっていた。
まるで丸太のように膨れ上がった腕は、誰の目にも異常だとわかる状態だった。
「ひどい内出血だ。それにこの筋肉の断裂具合……いつからこんな状態だったんですか!」
ドクターの鋭い声が、コーナーに響き渡る。
結衣の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
「断裂……?」
結衣の震える声に、ドクターが険しい顔で答える。
「長期間、強烈な衝撃を受け続けたことによる蓄積ダメージです。筋繊維が完全に切れている。これ以上は危険だ、すぐに病院へ搬送します」
その言葉が、結衣の胸に深く突き刺さった。
俺が夜な夜なこっそり氷嚢を当てていたこと。湿布の匂いをごまかして笑っていたこと。
すべては、彼女の規格外の打撃を受け止め続けた代償だった。
「私の、せい……?」
結衣の唇がわななく。
「違う、結衣。これは俺の古傷が痛んだだけで……」
「嘘だ!」
結衣の悲痛な叫びが、俺の言葉を遮った。
彼女の視線が、床に転がったままのミットに注がれる。
自分が放ち続けた拳が、最も愛する人間の腕を破壊していた。
その残酷な事実が、彼女の心を粉々に砕いていく。
「試合続行は不可能です。セコンドは直ちに退場してください」
ドクターの無情な宣告が下された。
俺は抗議しようと口を開いたが、声にならなかった。
右腕の激痛が、遅れて脳髄を殴りつけてきたからだ。視界が白く明滅し、立っていることすら困難になる。
係員が二人がかりで俺の両脇を抱え、コーナーから引き剥がそうとする。
「待って……行かないで……!」
結衣が手を伸ばす。
だが、その手は空を切り、俺のジャージの裾を掠めることすらできなかった。
最終ラウンドの開始を告げる笛が、無機質に鳴り響く。
「選手は中央へ!」
主審の声がアリーナに響く。
結衣は、青コーナーに立ち尽くしていた。
対角線の赤コーナーでは、相手選手が闘志をむき出しにしてステップを踏んでいる。
結衣の足元には、俺が落としたミットが転がったままだ。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、かつての強い光は完全に失われていた。
あるのは、底知れない無力感と、自分自身の拳に対する恐怖だけ。
俺は通路へと引きずられながら、ただ彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。
「結衣……!」
振り返ることなく、結衣は歩き出す。
セコンドのいない、たった一人のリングへ。
その背中は、かつて路地裏で怯えていた日々よりも、はるかに小さく、ひどく脆く見えた。




