第15話
控室のパイプ椅子から立ち上がり、俺は大きく息を吐き出した。
コンクリートの壁越しに、アリーナの歓声が地鳴りのように響いてくる。全国大会という大舞台の熱気は、厚い扉を隔ててもなお肌をビリビリと震わせていた。
「よし、次戦に向けて体を温めておくぞ。ミットをつける」
結衣は無言で頷き、バンテージを巻いた両手を軽く打ち合わせた。初戦の鮮烈なKO勝利の余韻は、すでに彼女の瞳から消え去っている。代わりに宿っているのは、獲物を狙うような鋭い集中力だった。華奢な体つきからは想像もつかないほどの闘気が、静かに、だが確実に立ち上っている。
俺は古びた革のミットを両手にはめる。右腕を通すだけで、肘から手首にかけて鈍い痺れが走った。奥歯を強く噛み締め、表情筋を無理やり引き上げる。
「いくぞ。まずはジャブからだ」
俺の合図とともに、結衣が踏み込んできた。
空気を裂くような鋭い左が、俺の右手のミットに突き刺さる。
重い衝撃が手首を抜け、肘の関節を激しく揺さぶった。
「ッ……!」
声にならない呻きを喉の奥で殺す。
結衣のパンチは、初戦を終えてさらに威力を増していた。大舞台の緊張が完全に解け、体の使い方がより洗練されているのだ。彼女の足元を見る。シューズの先端を軸にして、滑るように死角へ回り込む特異なステップ。かつて理不尽な暴力から身を守るために身につけたその動きは、今や完全に攻撃の起点として昇華されていた。
「もっと踏み込め! 腰の回転をパンチに乗せろ!」
痺れる右腕を庇うように腰を落とし、ミットをさらに前に突き出す。
結衣は小さく呼気をもらし、さらにスピードを上げる。
ワンツー、フック、そしてアッパー。
連撃がミットにめり込むたび、俺の右腕の神経が悲鳴を上げた。焼け焦げるような痛みが走り、視界の端が白く霞む。額から冷や汗が噴き出し、背中を冷たいものが伝い落ちていった。
娘の放つ一撃一撃が、俺の古傷を確実に削り取っていく。
だが、ミットを下ろすわけにはいかない。
結衣は今、恐ろしい速度で進化している。俺がかつてノートの切れ端に書き残し、未完成のまま終わらせたあの理論。それを実戦で体現しようとしているのだ。ここで俺が倒れれば、彼女の成長を止めてしまう。
「いいぞ、その調子だ。ガードを下げないように気をつけろ」
痛みを隠すために、俺はわざと大きな身振りで指示を出した。
結衣は俺の限界など微塵も疑っていない。ただ真っ直ぐに、俺の構える的だけを見つめ、無心で拳を振るい続けている。彼女の瞳には、俺への絶対的な信頼が宿っていた。
その信頼が、今はひどく恐ろしい。
もし試合中に俺の腕が完全に壊れてしまったら。
彼女は自分のせいで俺が傷ついたと思い込み、二度とリングに上がれなくなるかもしれない。自分が教えたボクシングが原因で、娘を再び絶望の淵に突き落とすことだけは絶対に避けなければならない。
「よし、そこまでだ」
俺はたまらずミットを下げた。
結衣は肩で息をしながら、満足そうに汗を拭う。
「どうだった? さっきの試合より、動きは良くなってるかな」
「ああ、完璧だ。次の相手も問題なく倒せる」
俺は震える右手を背中に隠し、努めて平坦な声で答えた。
結衣がスポーツドリンクのボトルに手を伸ばしたとき、控室のドアが控えめにノックされた。
「入ってますよ」
俺が声をかけると、ドアがゆっくりと開き、見覚えのあるジャージ姿の少女が姿を現した。
橘美咲。
地区大会で最大の壁となるであろう、天才エリート選手。彼女は無表情のまま室内を一瞥し、結衣の姿を認めて静かに歩み寄ってきた。
「初戦、見事だったわ」
美咲の声は氷のように冷たく、感情の起伏を感じさせない。だが、その言葉には確かな敬意が込められていた。
「次も勝って。決勝であなたを叩き潰すのは、私だから」
「……望むところだよ」
結衣も負けじと強い視線を返す。二人の間に、火花が散るような緊張感が走った。
互いに全力を出し切ることを誓い合う、ライバル同士の静かなやり取り。俺は黙ってその光景を見守っていた。
だが、美咲の視線がふいに結衣から外れ、俺の方へと向けられた。
彼女の鋭い観察眼が、俺の全身を舐め回すように探ってくる。
そして、不自然に背中に隠された俺の右腕と、顔に張り付いたままの冷や汗にピタリと視線を止めた。
美咲の細い眉が、わずかに動く。
彼女は何も言わなかった。ただ、その冷徹な瞳が『あなたの腕、もう限界じゃないの?』と無言で問いかけていた。
俺の背筋に冷たいものが走る。
この少女は、結衣の仕上がりを確認しに来ただけではない。セコンドである俺の状態まで、正確に見抜いているのだ。
美咲の問いかけに対し、俺はただ微かに首を振った。
余計なことは言うな。
そんな俺の意志を読み取ったのか、美咲は小さく息を吐き、再び結衣に向き直った。
「準備運動はほどほどにしておくことね。本番前に疲労を溜めても意味がないわ」
それだけを言い残し、美咲は控室を後にした。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
「なんだか、すごい威圧感だったね」
結衣が小さく息をつき、俺を見上げた。
「ああ。だが、お前なら勝てる。何も心配はいらない」
俺は結衣の頭を軽く撫でようとして、右手が上がらないことに気づいた。
慌てて左手を伸ばし、彼女の肩を叩く。
「さあ、そろそろ呼び出しの時間だ。荷物をまとめろ」
「うん!」
結衣は力強く頷き、グローブを外しにかかった。
俺は壁に背を預け、誰にも見られないように右腕をさすった。
感覚が麻痺し始めている。指先は冷たく、自分の腕ではないような錯覚すら覚えた。
コンコン、と再びドアが鳴る。
「沢田選手、次戦の準備をお願いします」
係員の声が響いた。
結衣が勢いよく立ち上がり、俺を振り返る。
「行こう。次も絶対に勝つから」
彼女の背中には、もう迷いも恐れもない。
俺も壁から背中を離し、一歩を踏み出した。
だが、右腕はだらりと垂れ下がったまま、微かな痙攣を繰り返している。
ついに次戦のリングへ向かう。
しかし、俺の腕はすでに悲鳴を上げていた。




