第14話
開始のゴングが鳴るや否や、結衣が紙一重でフックを躱すと、空を切った相手の太い腕がロープを激しく揺らした。
東日本ブロックを制したシード選手。その体格差は、大人と子供ほどもあった。筋肉の鎧をまとった巨体が、再び低い姿勢から突進してくる。
荒削りだが、当たれば一撃で意識を刈り取られるほどの威圧感だ。地方大会では、このパワーだけで対戦相手をねじ伏せてきたのだろう。
観客席からは、地鳴りのような歓声が降り注いでいる。巨大なアリーナの熱気は、地方の体育館とは比べ物にならない。無数の視線がリング上の二人に注がれ、張り詰めた空気が肌を刺すようだった。
照明の光が、キャンバスに落ちる汗をキラキラと反射させている。
「結衣、足を使え! 正面から受け止めるな!」
俺はセコンドの定位置から声を張り上げた。歓声にかき消されそうになるが、結衣の耳には届いているはずだ。
結衣は小さく頷くような仕草を見せると、つま先を軸にして滑るように横へ移動した。
空振りの風圧が結衣の前髪を激しく揺らす。
だが、結衣の表情に焦りはない。
ガードを高く上げ、相手の肩の動きを冷静に観察している。瞳の奥には、リングに上がる前の緊張は微塵も残っていなかった。
相手選手は、自分のパンチが空を切ったことに苛立ちを隠せないようだった。鼻息を荒くし、さらに前傾姿勢で距離を詰めてくる。
左右のフックを振り回し、結衣をコーナーへ追い詰めようとする。
一発でもまともに貰えば、試合は終わる。
観客席から、どよめきと悲鳴が入り混じった声が上がった。圧倒的な暴力の前に、小柄な少女が飲み込まれる。誰もがそう思った瞬間だった。
結衣の体が、ふっと沈み込んだ。
そのまま鋭く斜め前へ踏み込む。
あの特異なステップだ。かつて理不尽な暴力から身を守るために身につけた動きが、今はリングの上で完璧な死角を突くための武器となっている。
神崎レナとの過酷なスパーリングを思い出す。あの鋭く、洗練された連打に比べれば、目の前の大振りなパンチは決して見えない軌道ではないのだ。
相手の懐に潜り込んだ結衣は、コンパクトに右の拳を握り込んだ。
下半身のバネから生み出された力が、腰の回転を通じて肩へ、そして拳へと伝わっていく。俺とのミット打ちで、何度も何度も反復してきた完璧なフォーム。
「いけっ!」
俺の叫びと同時に、結衣の右ストレートが、相手の顎を正確に打ち抜いた。
パーン、と乾いた衝撃音がアリーナに響き渡る。
巨体が、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。キャンバスに背中を打ちつける鈍い音が、遅れて耳に届く。
一瞬の静寂。
そして、爆発的な歓声が巨大な空間を揺るがした。
「ダウン!」
審判が割って入り、カウントを数え始める。しかし、相手選手の目は完全に虚ろだった。立ち上がる意志はおろか、自分がどこにいるのかすら理解していない様子だ。
「テン! アウト!」
試合終了のゴングが、熱狂の渦に吸い込まれるように鳴り響いた。
1ラウンド、わずか一分半でのKO劇。
全国の舞台、それもシード選手を相手にしての圧倒的な勝利だった。
「勝者、赤コーナー、沢田結衣!」
アナウンスが響き渡ると、観客席からは割れんばかりの拍手が送られた。
リングの中央で審判に右手を挙げられた結衣は、少しだけはにかんだような笑顔を見せた。そして、すぐに俺のいる青コーナーへと小走りで駆け寄ってくる。
「お父さん!」
ロープの隙間から身を乗り出した結衣の瞳は、興奮と喜びに満ちていた。
「やったな、結衣。完璧なタイミングだったぞ」
「うん! お父さんの言った通り、相手の動きがよく見えた。全然怖くなかったよ」
息を弾ませながら語る娘の姿に、俺の胸の奥が熱くなる。
かつて、路地裏で怯えていた少女の面影はもうない。彼女は今、自分の力で恐怖を打ち破り、全国の舞台で堂々と輝いているのだ。
「よくやった。最高の初戦だ」
俺は満面の笑みで、結衣に向けて右手を差し出した。
結衣も嬉しそうに笑い返し、グローブ越しに俺の手のひらへ力強くハイタッチを交わす。
パンッ、と小気味良い音が鳴った。
その瞬間だった。
——ビキッ。
右腕の奥深く、骨の髄から焼け焦げるような激痛が走った。
「ッ……!」
俺は咄嗟に息を呑み、顔が歪みそうになるのを必死に堪えた。
ただのハイタッチだ。結衣は力を抜いていたはずだ。それなのに、腕全体が痙攣し、指先まで痺れが走っている。
「お父さん?」
結衣が小首を傾げ、俺の顔を覗き込んできた。
「いや……なんでもない。ちょっと、観客の熱気に当てられただけだ」
俺は引きつりそうになる頬の筋肉を無理やり動かし、なんとか笑顔を作った。
「さあ、控え室に戻るぞ。まだ初戦を突破しただけだ。次に向けて、しっかり体を休めないとな」
「うん!」
結衣は素直に頷き、リングを降りていく。
俺はその後ろ姿を追いかけながら、右腕をそっと左手で押さえた。
ジャージの袖越しでも、異常な熱を持っているのがわかる。
これまでの特訓で、結衣のパンチ力は俺の想像を遥かに超える速度で進化してきた。その代償として、俺の右腕には確実にダメージが蓄積している。
毎晩こっそり冷やし続け、痛み止めの薬を飲んで誤魔化してきたが、もはや限界が近いことは明らかだった。
通路を歩きながら、俺はふと観客席を見上げた。
記者席のあたりで、矢島がこちらを見下ろしているのが見えた。彼はよれよれのスーツのポケットに手を突っ込んだまま、どこか探るような視線を俺の右腕に向けている気がした。
気のせいだと思いたい。だが、あの鋭い観察眼を持つ男に、俺の異変がバレていない保証はない。
控え室のドアを開けると、結衣はすぐにパイプ椅子に腰を下ろし、スポーツドリンクを口にした。
「次の相手は、どこのブロックの人かな」
結衣の目は、すでに次戦を見据えている。その声には、確かな自信と、もっと強くなりたいという純粋な渇望が宿っていた。
「誰が来ても同じだ。お前のボクシングを貫けばいい」
俺はバンテージを解く手伝いをしながら、努めて平坦な声で答えた。
結衣の才能は、まだまだ底を見せていない。この全国大会という舞台で、彼女はさらに高く飛躍するだろう。
俺は、その翼を折るわけにはいかないのだ。
「お父さん、手が震えてるよ?」
結衣が、不思議そうに俺の手元を見つめた。
「ああ……ちょっと、緊張の糸が切れたみたいだな。俺がリングに上がったわけじゃないのにな」
冗談めかして笑い飛ばすと、結衣も「お父さんったら」と笑ってくれた。
だが、俺の内心は冷や汗で濡れていた。
右腕の痛みは、波のように押し寄せては引いていく。次にミットを構えたとき、果たしてこの腕は結衣のパンチを受け止めきれるのだろうか。
もし、俺の腕が壊れてしまったら。
結衣の成長を止めてしまうことにならないか。
かつて怪我で夢を絶たれた自分の過去が、嫌な形でフラッシュバックする。
「お父さん、次の試合も、セコンドでしっかり見ててね」
結衣の真っ直ぐな言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「ああ。当然だ。俺はずっと、お前のコーナーにいる」
俺は右手の震えを隠すように、拳を強く握りしめた。
結衣の勝利の余韻に浸る間もなく、俺の頭の中には暗い影が落ちていた。
次戦に向けて、俺の腕は持ち堪えられるのか。
ズキズキと脈打つ痛みが、その答えを冷酷に突きつけているような気がした。




