第13話
夜の冷気が、熱を持った右腕の痛みを少しだけ和らげてくれる。
隣を歩く結衣の足取りは軽く、時折スキップでもしそうなほど弾んでいた。街灯に照らされた横顔には、かつて俯きがちだった頃の面影はない。
アパートの階段を上り、玄関のドアを開ける。
「おかえりなさい。ちょうど準備ができたところよ」
エプロン姿の真由美が、キッチンから顔を出した。食卓の上には、ホットプレートと山盛りの肉、そして色鮮やかな野菜が並べられている。
「うわあ、すごい」
結衣が目を輝かせて靴を脱ぐ。
明日は、いよいよ全国大会の会場へ出発する日だ。今日は家族三人での、ささやかな壮行会だった。
「奮発しちゃった。結衣の全国大会出場のお祝いだもの」
真由美が笑いながら、グラスに麦茶を注ぐ。俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、席についた。
「よし、それじゃあ……結衣の全国大会での健闘を祈って。乾杯」
「乾杯!」
グラスと缶が触れ合い、心地よい音が響く。
ホットプレートに肉を乗せると、ジュージューという食欲をそそる音とともに、香ばしい煙が立ち上った。
「ほら、どんどん食べなさい。スタミナつけないと」
真由美が焼けた肉を結衣の皿に取り分ける。結衣は嬉しそうに頬張り、満面の笑みを浮かべた。
「おいしい。母さん、無理して高いお肉買ってくれたんじゃない?」
「気にしなくていいの。こういう時くらい、贅沢しないとね」
和やかな会話が続く。
少し前まで、俺たち家族の間には見えない壁があった。仕事に追われる真由美と、過去の挫折を引きずっていた俺。そして、学校でのいじめに苦しんでいた結衣。
すれ違っていた時間が嘘のように、今は温かい空気が部屋を満たしている。
ボクシングという共通言語が、バラバラになりかけていた家族を再び繋ぎ止めてくれたのだ。
この穏やかな日常が、ずっと続けばいい。
ふと、そんな感傷が胸をよぎる。だが、俺たちは明日から過酷な戦いの場へ赴く。この静けさは、嵐の前の休息に過ぎない。
「そういえば、あなた」
真由美が箸を止め、俺の顔をじっと見つめた。
「ん? なんだ」
「さっきから、すごく強い湿布の匂いがするんだけど……腕、大丈夫なの?」
心臓が小さく跳ねた。
帰宅する直前、ジムの更衣室で念入りにスプレーを吹きかけ、新しい湿布を何枚も貼ってきた。服の上からでも、その匂いは隠しきれなかったようだ。
「ああ、これか」
俺は努めて平坦な声を作り、右腕を軽くさすった。
「ただの筋肉痛だ。最近、結衣のパンチが重くなってきてな。ミットを持つのも一苦労なんだよ。年をとった証拠だな」
わざとらしく笑ってみせる。
真由美の視線が、俺の右腕から顔へとゆっくり移動した。彼女の瞳の奥に、微かな疑念の色が揺れる。
妻を誤魔化しきれるとは思っていない。俺がかつて怪我でリングを降りたことを、彼女は誰よりも近くで見ていたのだから。
沈黙が落ちる。
俺は息を詰め、次の言葉を待った。もしここで激しく問い詰められれば、俺は嘘を重ねるしかない。結衣の前で、右腕が限界に近いことを明かすわけにはいかないのだ。
「……そう」
真由美は小さく息を吐き、ふっと表情を和らげた。
「無理だけはしないでね。あなたは昔から、夢中になると周りが見えなくなるんだから」
「ああ、気をつけるよ」
深く追及してこない真由美の優しさに、胸の奥が締め付けられる。
彼女は薄々気づいているはずだ。それでも、俺を信じて見守る道を選んでくれた。
心の中で深く謝罪しながら、俺は残りのビールを喉に流し込んだ。結衣の才能を咲かせるためなら、この腕がどうなろうと構わない。その覚悟は、とうに決まっている。
「結衣」
俺は空になった缶を置き、真っ直ぐに娘を見た。
「明後日からは、いよいよ全国の猛者たちが集まるリングだ。今まで戦ってきた相手とは、レベルが違う」
結衣が箸を置き、居住まいを正す。
「でも、恐れることはない。お前が積み重ねてきた練習は、絶対に裏切らない。全国の舞台でも、お前のボクシングを貫け」
「うん」
結衣は力強く頷いた。
「私、絶対に勝つ。父さんと一緒にやってきたこと、全部出し切ってくる」
その瞳には、迷いのない強い光が宿っていた。
かつて路地裏で震えていた少女の面影はない。彼女は今、自分の足で立ち、前を向いて戦う一人のボクサーだ。
「頼もしいわね。私も、仕事の調整をつけて応援に行くから」
真由美の言葉に、結衣は嬉しそうに頷き、残っていた肉を勢いよく口に放り込んだ。
家族の想いを背負い、結衣はリングに立つ。
俺は右腕の痛みを奥底に封じ込め、娘の成長をただ誇らしく見つめていた。
翌朝、俺たちは新幹線に乗り込み、全国大会の開催地である都市へと向かった。
車窓から流れる景色を眺めながら、結衣は静かにイヤホンで音楽を聴いている。緊張しているのか、それとも集中を高めているのか。
俺は隣の席で、ボクシングノートのページをめくっていた。
破り取られた最終ページ。そこに記されていた未完成の理論は、結衣の特異なステップと融合することで、新たな形を成しつつある。
だが、それを実戦で使いこなすには、まだピースが足りない。
全国の舞台で、結衣はさらなる進化を遂げることができるのか。
数時間後、巨大な体育館の前に到着した。
全国から集まった選手たちの熱気が、肌をビリビリと刺激する。各地区を勝ち抜いてきた代表選手たちが、それぞれの思いを胸にアップを始めている。
「すごい人……」
結衣が周囲を見渡し、小さく呟いた。
「圧倒されるな。リングの上では、相手と自分しかいないんだ」
俺の言葉に、結衣は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
結衣は力強く頷き、選手受付へと向かう足取りを速めた。
控室での準備を終え、俺たちは通路を抜けてアリーナへと足を踏み入れた。
眩い照明が、キャンバスを白く照らし出している。
観客席からのざわめきが、波のように押し寄せてくる。地方の地区大会とは比べ物にならないスケールだ。
結衣の初戦の相手は、東日本ブロックを勝ち上がってきたシード選手だった。
赤コーナーから登場した相手選手は、結衣よりも一回り大きく、筋肉の鎧をまとっている。鋭い眼光でこちらを睨みつけてきた。
「結衣、いつも通りだ。相手の動きをよく見て、自分の距離を保て」
ロープを潜る結衣の背中を叩き、俺はセコンドの位置についた。
結衣はリングの中央へ進み、相手とグローブを合わせる。
審判の合図とともに、両者が距離を取った。
結衣が小さく息を吐き、ガードを高く上げた。
そして、全国大会の幕開けを告げるゴングが、高く鳴り響いた。
相手選手が、ゴングと同時に猛然とダッシュしてくる。圧倒的なパワーで押し潰そうとする、荒々しい戦法だ。
結衣は冷静にステップを踏み、その突進を紙一重でかわした。
全国の舞台で、結衣の力はどこまで通用するのか。
俺は祈るような気持ちで、リング上の娘を見つめていた。




