第19話
学校の廊下は、いつもよりずっと冷たく感じられた。
上履きの底がリノリウムの床を擦る音だけが、耳の奥でやけに大きく響く。私は俯いたまま、誰とも目を合わせないようにして歩いていた。
「ねえ、聞いた? 沢田さん、ボクシング辞めたらしいよ」
「マジで? あんなに強かったのに」
「なんか、お父さんが大怪我したとかで……」
すれ違う生徒たちのひそひそ話が、容赦なく鼓膜を叩く。私は息を止め、歩幅を少しだけ広げた。
地区大会の決勝戦から、数日が経っていた。
お父さんの右腕はギプスで厳重に固定され、家の中には重苦しい沈黙が張り付いている。私が放ったパンチの威力が、ミット越しにお父さんの腕を破壊し続けていたのだ。その事実を知ったとき、私の中で何かが完全に砕け散った。
もう二度と、ボクシングはしない。
そう宣言して部屋に引きこもっていた私だが、学校を休み続けるわけにもいかず、重い体を引きずって登校していた。
階段の踊り場に差し掛かったとき、ふと前方から聞き慣れた声がした。
「だからよお、沢田も結局、ただのビビりに戻ったってことっすね」
取り巻きの男子生徒が、へらへらと笑いながら言った。その中心に立っているのは、堂本翔だった。かつて私を標的にしていた、いじめの主犯格。
私は反射的に壁の陰に身を隠し、肩をすくめた。また、標的にされる。そんな恐怖が足元から這い上がってくる。
ドンッ!
鼓膜を劈くような激しい音が響いた。堂本が、苛立ち任せに近くのロッカーを蹴り飛ばしたのだ。取り巻きたちがビクッと肩を震わせ、笑い声を引っ込める。
「てめえら、黙れ」
堂本の声は、地を這うように低かった。
「あいつが……あんなところで終わるわけねえだろ」
壁の隙間から覗き見ると、堂本はギリッと奥歯を噛み締め、拳を強く握り込んでいた。その横顔には、かつて私を見下していたときの傲慢さはなく、ただ純粋な苛立ちと、理解できないものに対する怒りが渦巻いていた。
「あんな圧倒的な力を見せつけといて、あっさり折れるとか……ふざけんなよ」
堂本は吐き捨てるように言い、乱暴な足取りで階段を下りていった。取り巻きたちが慌ててその後を追う。
嵐が過ぎ去った後の踊り場で、私は一人、壁に背中を預けてへたり込んだ。
堂本の言葉が、胸の奥に重くのしかかる。
彼は、私が再び無力な自分に戻ったことを喜んでいなかった。むしろ、自分を屈服させた存在が、こんなにも脆く崩れ去ったことに腹を立てているようだった。
でも、どうしようもないのだ。
私はもう、あのリングに立っていた私じゃない。お父さんの声に背中を押され、強い光を宿していた私は、もうどこにもいない。
ただの、弱い私に戻っただけだ。
◆ーーーー◆
放課後、鉛のように重い足取りで家に帰ると、玄関に見慣れない革靴が揃えられていた。
リビングのドアの向こうから、低い話し声が聞こえてくる。お父さんの声と、もう一人……聞き覚えのある、少し芝居がかった丁寧な口調。
「健一さん、本当にこれでいいんですか。彼女の才能は本物です。あんな素晴らしいステップを踏める選手は、そうはいません」
スポーツ記者の矢島浩平だった。私は息を殺し、ドアの隙間からそっと中の様子を窺った。
矢島はソファの端に身を乗り出し、真剣な表情でお父さんに詰め寄っている。対するお父さんは、ギプスで固定された右腕を庇うようにして座り、深く俯いていた。
「……あいつが選んだことだ。俺は、無理強いはしない」
お父さんの声は、ひどく掠れていて、力がない。
「しかし、あなたの怪我のせいだと彼女が思い込んでいるなら、誤解を解くべきです。彼女がリングを降りるのは、ボクシング界にとっても損失ですよ」
「誤解じゃない。俺が、自分の限界を見誤っただけだ」
お父さんはゆっくりと首を振った。
「俺は……結衣に自信を取り戻してほしかった。理不尽な暴力に怯えず、自分の足で立ってほしかったんだ。だが、結果的に俺は、あいつに一番重い十字架を背負わせてしまった」
矢島が何かを言いかけるが、お父さんはそれを手で制した。
「俺の腕はどうでもいい。ただ……結衣がこれ以上傷つくくらいなら、ボクシングなんて忘れてくれた方がいいんだ。あいつは、普通の女の子に戻るべきなんだよ」
息を呑み、私はドアの枠にすがりついた。
お父さんは、私を見限ったわけじゃない。ただ、私を守るために、自分が愛してやまないボクシングを、指導者としての未来を、完全に諦めようとしている。
私がリングに上がらなければ、お父さんはもう二度と、あの古いジムでミットを構えることはない。私たちが共有していた熱も、汗の匂いも、すべてが過去の残骸になってしまう。
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、私は口元を両手で覆った。
声が漏れそうになるのを必死に堪え、抜き足差し足で廊下を引き返し、逃げるように自室へと駆け込んだ。
ドアを閉め、鍵をかける。
ベッドに倒れ込むと、抑えきれなくなった涙がシーツに染み込んでいった。
私のせいで、お父さんを壊してしまった。
私が強くなりたいと願ったから、お父さんは無理をして、その結果、すべてを失ってしまった。
部屋の中は、夕暮れの薄暗い光に満たされている。
ふと、部屋の隅に置かれた見慣れた靴箱が目に入った。
私はのろのろと身を起こし、靴箱に近づいた。
蓋を開けると、そこには中学生になってからずっと履いていた、古い白いスニーカーが収められている。
そっと両手で取り出す。
かかとは綺麗なままなのに、つま先部分だけが異常に薄く削れている。
いじめっ子たちから逃げ回るために、アスファルトに強く擦り付けながら、必死に方向転換を繰り返した痕跡。
毎日毎日、恐怖に怯えながら、ただ逃げることだけを考えていた私の、惨めな過去の象徴。
『いいか結衣。このすり減ったつま先は、お前が生き延びるために身につけた武器だ』
初めてジムに行った日、お父さんはこのスニーカーを見て、そう言ってくれた。
逃げるためのステップが、相手の攻撃を見切り、瞬時に死角へ入り込むための才能なのだと。
あの言葉が、私に魔法をかけてくれた。
無力で惨めだった私が、リングの上では誰よりも速く、誰よりも強くあれるのだと信じさせてくれた。
私はスニーカーの削れたつま先を、指でそっと撫でた。
ざらざらとした感触が、指先に伝わってくる。
でも、今はもう、魔法は解けてしまった。
スニーカーをいくら見つめても、そこにあるのはただのボロボロの靴だ。
リングの上で輝いていた時間は、まるで都合のいい夢だったかのように、手のひらからこぼれ落ちてしまった。
私は結局、逃げ回ることしかできない、無力な子供のままだったのだ。
お父さんのミットがなければ、お父さんの声がなければ、私は一歩も前に踏み出すことができない。
「ごめんなさい……お父さん……」
スニーカーを胸に抱きしめ、私は膝に顔を埋めた。
ボクシングを失い、お父さんとの絆を失い、私は完全に空っぽになってしまった。
もう、私には何も残っていない。
窓の外では、完全に日が落ち、夜の闇が忍び寄ってきている。
暗い部屋の中、ただ静かな絶望と、底なしの無力感だけが、私を冷たく包み込んでいた。
このまま、私はずっと暗闇の中でうずくまっているしかないのだろうか。
冷え切った私の心に、再び火を灯してくれるものなど、この世界のどこにもないように思えた。




