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第10話

未知の領域への扉が、今、開かれようとしていた。


連盟から送られてきた全国大会のトーナメント表と、有力選手たちのデータ。紙面に印刷された文字と写真だけを見つめていても、相手の真の恐ろしさは測りきれない。俺は静まり返った夜のジムで一人、深く息を吐き出した。


数日後の夕暮れ時。


古びた鉄扉が、重苦しい軋み音を立てて開いた。現れたのは、無精髭を生やし、よれよれのスーツを着崩したスポーツ記者の矢島浩平だった。彼は小脇に抱えていたノートパソコンを、リングサイドの丸椅子の上に無造作に置く。


「権田会長は出かけているのかい?」


「ええ、所用で。今日は俺と結衣だけです」


「好都合だ。じっくりと作戦会議ができる」


矢島は飄々とした口調で言いながら、画面を立ち上げた。俺と結衣は、小さなモニターの前に並んで立つ。


「連盟からの紙の資料だけじゃ、いまいちイメージが湧かないだろうと思ってね。僕の足で集めた、全国の猛者たちの最新映像を持ってきたよ」


再生されたのは、一回戦で当たる関西のシード校エースの試合風景だった。


画面越しでもはっきりと伝わってくる、圧倒的な筋力とバネ。中学生の女子とは思えないほど発達した肩周りの筋肉が、照明を反射して汗に濡れて光っている。彼女がステップを踏むたびに、リングのキャンバスが小さく揺れているようにすら見えた。


「彼女の武器は、リーチの長さを活かしたアウトボクシングだけじゃない。懐に入られたときの、接近戦での手数が異常なんだ」


矢島の解説通り、映像の中の選手は対戦相手をロープ際に追い詰めると、息もつかせぬ連打を浴びせていた。ガードの隙間を縫うようにねじ込まれるアッパーとフック。相手選手は防戦一方になり、やがて膝から崩れ落ちた。


「幼い頃から空手や柔道といった格闘技を渡り歩き、最終的にボクシングに行き着いたらしい。天性の闘争本能と、鍛え上げられた肉体。まさに重戦車だよ」


橘美咲の洗練された技術とはまた違う、暴力的なまでのフィジカルとスタミナ。全国という舞台には、これほどの怪物がゴロゴロしているのか。俺は無意識のうちに、ズキリと疼く右腕を左手で押さえていた。


隣に立つ結衣の横顔を、そっと盗み見る。


自分より頭一つ分も大きく、獰猛なプレッシャーを放つ相手。かつての彼女なら、この映像を見ただけで肩を震わせ、俯いてしまっていたかもしれない。泥水のような黒い汚れがついたスカートを穿き、路地裏で震えていた小さな背中を思い出す。


だが、今の結衣は違った。


モニターの光を反射する瞳には、微塵の恐怖も浮かんでいない。むしろ、食い入るように画面を見つめ、瞬きすら忘れているようだった。


「……すごい」


ぽつりと漏れた声には、怯えではなく、純粋な感嘆が混じっていた。


「こんなに速く、重いパンチを打ち続けられる人がいるんだね」


彼女の小さな手が、ジャージの裾をぎゅっと握りしめている。それは緊張からではなく、今すぐにでも体を動かしたくてうずうずしているような、武者震いに見えた。


「怖くないのか?」


俺が尋ねると、結衣はゆっくりと首を振った。


「怖いっていうより……ワクワクしてる。この人と戦ったら、私はもっと強くなれる気がするから」


その横顔は、理不尽な暴力に怯え、路地裏で泣いていた少女のものではない。リングの上で戦う意味を知り、自らの意志で強さを渇望する、一人のボクサーの顔だった。


胸の奥に、熱い塊が込み上げてくる。俺の指導は間違っていなかった。彼女は確かに、自分の足で立ち上がり、前へ進もうとしている。


矢島がパソコンを閉じ、興味深そうに結衣を見つめた。


「頼もしいね。でも、気合いだけで勝てる相手じゃないのは分かっているだろう? 君の特異なステップも、あのリーチと手数の前では簡単には通用しない」


「ええ、分かっています」


俺は矢島の言葉を引き継ぎ、結衣に向き直った。


「相手の懐に潜り込むには、今まで以上に深く、そして鋭く踏み込む必要がある。さらに、相手の連打を掻い潜りながら、こちらの手数を増やすスピードも求められる」


それは、足腰の筋肉に極限の負担を強いる特訓になる。少しでもタイミングがずれれば、強烈なカウンターをもらう危険性も跳ね上がる。


「かなり厳しい練習になるぞ。足が動かなくなるまで追い込むことになる。それでも、やるか?」


俺の問いかけに、結衣は一切の迷いなく即答した。


「やる」


まっすぐな視線が、俺を射抜く。


「あなたが教えてくれたボクシングを、絶対に馬鹿にさせない。理不尽な力でねじ伏せようとしてくる相手に、私はもう二度と屈しないって決めたから」


その言葉に、俺は深く頷いた。


「よし。なら、すぐに始めるぞ。バンテージを巻け」


「はい!」


◆ーーーー◆


特訓が始まった。


リングのキャンバスに、白いビニールテープで二本のラインを引く。相手のリーチの外側と、完全に懐に入り込んだ内側の位置を示す目印だ。


「もっと深く! 外側のラインから一歩で内側のラインを越えろ! 相手のパンチの軌道の下をくぐるように踏み込むんだ!」


俺の怒号が、静かなジムに響き渡る。


結衣は汗だくになりながら、何度も何度もステップを踏み、俺の構える分厚いミットに向かって拳を打ち込む。


左足でキャンバスを強く蹴り、右足で着地すると同時に腰を鋭く回転させる。その連動が、小柄な体躯から信じられないほどの破壊力を生み出していた。


パーン、パーンという鋭い打撃音が、連続して鳴り響く。


踏み込みの深さを増した分、体重の乗ったパンチの威力も跳ね上がっていた。ミット越しに伝わる衝撃が、骨の髄まで響くような鈍い痛みとなって、俺の右腕の芯を容赦なく削っていく。


痛みを堪え、俺はさらに厳しい要求を突きつける。


「遅い! 打ったらすぐに次のポジションへ移動しろ! 立ち止まれば蜂の巣にされるぞ!」


結衣の息が上がり、足元がふらつき始める。それでも彼女は、決して休もうとはしなかった。


削れた靴先がキャンバスを擦る音が、彼女の不屈の意志を代弁しているようだった。


矢島はリングサイドに腰を下ろし、メモ帳を開きながらその光景を静かに見守っていた。


「……恐ろしい吸収力だ。君の教えを、スポンジのように吸い込んでいる。並の選手なら、あの踏み込みを数回やっただけで膝が笑うはずだ」


矢島の呟きが耳に届くが、俺はミットから目を離さない。


結衣の才能は、俺の想像を遥かに超えている。俺が未完成のまま残したあの絶技の理論すら、彼女なら完璧に体現できるかもしれない。


だが、そのためには、この過酷な反復練習を乗り越え、基礎となる脚力とスタミナを極限まで高める必要がある。


「まだだ! あと三十秒、手を止めるな!」


「……っ、はい!」


結衣の叫び声とともに放たれた左右の連打が、ミット越しに俺の体勢を大きく仰け反らせた。


右腕の感覚が麻痺し始めていたが、俺は奥歯を噛み締めて耐えた。娘が限界を超えようとしているのに、俺が弱音を吐くわけにはいかない。


一時間の連続ミット打ちを終え、結衣はキャンバスに仰向けに倒れ込んだ。


荒い息を吐きながら、高い天井を見上げている。


俺もロープにもたれかかり、こっそりと右腕をさすった。後でまた、念入りにアイシングをしなければならないだろう。


「今日はここまでだ。よく頑張った」


俺が声をかけると、結衣はゆっくりと身を起こし、充実感に満ちた笑みを浮かべた。


確かな手応えがあった。この踏み込みと連撃のスピードが身につけば、全国の怪物たちとも渡り合えるはずだ。


その時だった。


ジムの入り口の鉄扉が、再び重い音を立てて開いた。


「ずいぶんと激しい練習をしているじゃない」


凛とした、しかしどこか挑発的な声。


俺と結衣は同時に扉の方へ視線を向ける。


逆光の中に立っていたのは、スポーツバッグを肩にかけた小柄なシルエットだった。足元には、使い込まれたボクシングシューズを履いている。


「一人でサンドバッグを叩くのにも飽きてきたところよ。相手をしてあげてもいいわよ」


その人物は、ゆっくりとジムの中へ足を踏み入れた。


過酷な特訓を開始した結衣の前に現れた、思わぬスパーリング相手。


新たな風が、熱気こもるジムに吹き込んでいた。


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