第9話
夕暮れの光が差し込むリングの上で、俺たちの新たなゴングが、静かに鳴り響いていた。
「パパのボクシングが一番強いって、私が全国で証明するから」
結衣のその言葉が、俺の胸の奥でまだ熱く燃え続けている。その日の特訓を終え、家路につく親子の背中には、確かな自信と次なる目標への期待が満ちていた。
それから数日が過ぎた。
権田会長のジムは、かつてないほどの熱気に包まれていた。結衣が地区大会を制し、全国への切符を手にしたというニュースは、カビと汗の匂いが染み付いた寂れたこの場所に、新しい風を吹き込んでいる。
「シュッ、シュッ!」
リングの隅で、結衣が鋭い踏み込みからワンツーをサンドバッグに打ち込んでいた。
革の表面が大きく凹み、重いサンドバッグが揺れる。そのたびに、天井から吊るされた鎖がガチャガチャと金属音を立てた。
俺はリングサイドのパイプ椅子に座り、その動きをじっと観察していた。手元のノートには、結衣の動きの癖や改善点がびっしりと書き込まれている。
結衣の最大の武器は、相手の死角に滑り込む特異なステップと、天性の当て勘だ。いじめっ子から逃げ回る中で身につけた悲しい防衛本能が、ボクシングという枠組みの中で恐るべき攻撃力へと転化している。
だが、全国の舞台には、地区大会以上に洗練された技術を持つ選手たちが集まる。これまでの戦い方だけでは、通用しない場面も必ず出てくるはずだ。
「パパ、今の踏み込み、少し浅かったかな?」
サンドバッグを打ち終えた結衣が、グローブで額の汗を拭いながらこちらを向いた。その表情には、以前のような怯えや自信のなさは微塵もない。
「いや、スピードは申し分ない。ただ、打った後の引きが甘い。そこを狙われるぞ」
「わかった。もう一回やってみる」
結衣は素直に頷き、再びサンドバッグに向き直る。
ステップの踏み込み速度をさらに上げ、打った後の隙を極限まで減らす。相手の攻撃を躱すだけでなく、より攻撃的なポジションを奪い取るための反復練習が必要だった。
「よし、次はミットだ。リングに上がれ」
俺が声をかけると、結衣は嬉しそうに頷き、ロープを潜った。
俺は両手に古びたミットをはめ、キャンバスの感触を確かめながら構えをとる。
「新しく教えたコンビネーション、試してみるぞ。ジャブで牽制して、相手の右をダッキングでかわす。そこから踏み込んで左ボディ、上に右フックだ」
結衣の瞳に、強い光が宿る。リングに上がった瞬間に見せる、あの負けず嫌いな表情だ。
ゴング代わりのタイマーが鳴った。
結衣が鋭く踏み込んでくる。
パーン!
乾いた破裂音が、静かなジムに響き渡った。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
以前とは比べ物にならないほど、パンチが鋭く、そして重くなっている。ミット越しに伝わる衝撃が、俺の右腕の芯を激しく揺さぶった。硬い丸太で殴られたような、骨の髄まで響く重さだ。
(なんだ、この重さは……)
地区大会の決勝を経て、結衣の中で何かが完全に覚醒したかのようだった。あの未完成だった危険な技を実戦で昇華させた経験が、彼女の打撃の質そのものを変質させている。
ズキリと、腕の奥深くで嫌な痛みが走った。
俺は思わず顔をしかめそうになったが、奥歯を噛み締めて表情筋をコントロールした。
「いいぞ! もっと腰を入れろ!」
わざと大きな声を出して、痛みを誤魔化す。
結衣は俺の言葉に背中を押され、さらにギアを上げた。
シュッ、パーン! シュッ、パーン!
リズミカルな連打が、俺の構えるミットに次々と吸い込まれていく。結衣の額から飛び散った汗が、キャンバスに黒い染みを作っていく。彼女の呼吸は荒いが、その瞳は獲物を狙う獣のように鋭い。
ラウンドを重ねるごとに、結衣の動きはキレを増していく。
第2ラウンド、第3ラウンドと進むにつれ、俺の腕に蓄積するダメージは確実に大きくなっていた。肩から首にかけて抜けるような衝撃が、神経を削る。
「パパ、もっと早くミット出して!」
「焦るな。自分のリズムを崩すな」
息を切らしながらも、結衣の拳は勢いを増すばかりだ。
ふと動きを止めた結衣が、少し息を切らしながら覗き込んでくる。
「パパ、顔色悪いよ? 疲れてるの?」
「いや、お前のパンチが凄すぎて驚いてるだけだ」
俺はミットを下ろし、力強く頷いてみせた。絶対に痛みを悟らせるわけにはいかない。結衣が不安になれば、その拳は迷いを生む。彼女の純粋な闘志に水を差すわけにはいかなかった。
「本当? なら、もっと強く打ってもいい?」
「ああ、遠慮はいらない。全部受け止めてやる」
結衣は満足そうに微笑み、再びガードを固める。俺たちの特訓は、夜が更けるまで続いた。
◆ーーーー◆
夜。練習が終わり、結衣が先に帰宅した後のジム。
外からは遠くを走る車のエンジン音だけが微かに聞こえてくる。静まり返ったジムの中で、俺はパイプ椅子に深く腰掛け、腫れ上がった右腕のサポーターをゆっくりと外した。
製氷機から取り出した氷をビニール袋に入れ、タオルで巻いて腕に当てる。氷が溶ける微かな音が響く中、冷たさが肌を刺すが、それでも腕の奥で脈打つような鈍い痛みは引かない。
ズキズキと疼くその感覚は、かつて現役時代に感じた不吉な予兆に似ていた。
医者から引退を勧告された日の、あの無機質な診察室の匂いがフラッシュバックする。志半ばでリングを降りなければならなかった、あの日の絶望。
(まさか、結衣のパンチ力がここまで跳ね上がるとはな)
俺は自嘲気味に笑い、氷嚢を当て直す。
いじめから身を守るための護身術として始めた特訓。それが今や、全国の頂点を目指す過酷な道のりへと変わった。
娘の才能を引き出したのは俺だ。そして、その才能が今、俺の腕を確実に削り取っている。
だが、後悔は微塵もなかった。
結衣がリングの上で見せた、あの誇り高い笑顔。理不尽な暴力に怯えていた少女が、自分の力で運命を切り開いたのだ。
そのためなら、この腕の一本や二本、どうなっても構わない。
俺は静かな覚悟を胸に秘め、暗いジムの天井を見上げた。
「健一、まだ残ってたのか」
背後から声がして振り返ると、権田会長が事務所から出てくるところだった。その手には、数枚のプリントアウトされた紙が握られている。
「会長。ええ、少しクールダウンを」
俺は慌てて氷嚢をタオルの下に隠し、立ち上がった。
権田会長は一瞬、俺の隠した右腕に視線を落としたような気がしたが、何も言わずに紙を差し出してきた。
「全国大会のトーナメント表と、有力選手の情報が連盟から送られてきたぞ」
俺は左手でそれを受け取る。
そこには、全国から集まった猛者たちの名前と戦績がずらりと並んでいた。
無敗のハードパンチャー、圧倒的なスピードを誇るアウトボクサー、そして前年度の覇者。地区大会とは次元の違う、本物の強敵たちが待ち受けている。
資料に印刷された対戦相手の顔写真。鋭い眼光と、鍛え上げられた肩周りの筋肉。中学生とは思えない完成された体格だ。
「一回戦の相手は、関西のシード校のエースだ。インファイターで、接近戦での手数が異常に多いらしい。おまけに、身長は結衣より頭一つ分高い」
資料に記された『リーチ一六五センチ』という数字が、その圧倒的な体格差を如実に物語っていた。
リーチの長さを活かしたアウトボクシングもできるインファイター。結衣の特異なステップがどこまで通用するか、未知数だった。
腕の痛みが、再びズキリと疼いた。
果たして、この腕は最後まで保つのか。そして結衣は、この怪物たちの群れの中でどこまで通用するのか。
未知の領域への扉が、今、開かれようとしていた。




