第11話
「一人でサンドバッグを叩くのにも飽きてきたところよ。相手をしてあげてもいいわよ」
逆光の中から現れた小柄なシルエットが、ゆっくりとジムの中へ足を踏み入れた。肩にかけたスポーツバッグを下ろし、使い込まれたボクシングシューズで床を鳴らす。
神崎レナだった。
かつてデビュー戦で結衣と拳を交え、激闘の末に敗れた少女。金髪のショートヘアを揺らし、鋭い三白眼でリング上の結衣を睨みつける。
キャンバスに仰向けになっていた結衣は、弾かれたように身を起こした。荒い息を整えながら、ロープ越しにレナを見つめ返す。
「どうして、あなたがここに」
「勘違いしないでよね」
レナは鼻で笑い、バンテージの巻かれた両手を腰に当てた。
「アンタが全国で無様に負けたら、アタシの顔に泥を塗ることになるのよ。アタシを倒したんだから、きっちり勝ち上がってもらわないと困るわけ。だから、少しだけ稽古をつけてあげるって言ってるの」
悪態をつきながらも、レナの瞳には確かな闘志が宿っていた。彼女もまた、結衣との再戦を望み、己を磨き続けているのだろう。
俺はロープから背中を離し、レナに向き直った。
「ありがたい申し出だ。全国レベルのプレッシャーを想定するには、お前のラッシュは最適だからな」
「ふん、元チャンピオンにそう言われると悪い気はしないわね。さっさと準備しなさいよ」
レナは手早くグローブをはめ、リングサイドの階段を上ってきた。
結衣は立ち上がり、マウスピースを咥え直す。先ほどまでの過酷なミット打ちで疲労はピークに達しているはずだが、彼女の瞳は新たな強敵を前にして爛々と輝いていた。
ゴングの代わりに、俺が手を叩く。
「始め!」
その合図と同時、レナが猛然と踏み込んできた。
野性的な勘に裏打ちされた、好戦的なラッシュ。左右のフックが嵐のように結衣を襲う。以前戦った時よりも、明らかにパンチの回転速度が上がっていた。
結衣はガードを固め、上体を柔らかく使って連撃を殺していく。
矢島から提供されたデータ映像。全国の怪物たちが放つ、圧倒的なフィジカルとスピード。レナの猛攻をそのプレッシャーに重ね合わせ、結衣は脳内でシミュレーションを繰り返しているようだった。
「どうした、防戦一方じゃない! そんなんじゃ全国の連中には通用しないわよ!」
レナが挑発しながら、強烈な右ストレートを放つ。
その瞬間、結衣の足元が動いた。
摩耗した靴先を軸にして、滑るように相手の死角へ沈み込む。
レナの拳が空を切り、結衣は深く踏み込んだ。
ノートの最終ページから破り取られていた、あの未完成の迎撃技。俺が怪我で完成させられなかった理論を、結衣は実戦の中で形にしようとしている。
結衣の右拳が、レナの顎先に向かって跳ね上がった。
鋭い風切り音が鳴り、拳はレナの肌に触れる寸前でピタリと止まる。
「……っ」
レナは息を呑み、目を見開いた。額から一筋の冷や汗が流れ落ちる。もし実戦なら、完全に意識を刈り取られていたタイミングだった。
「……チッ、相変わらず嫌な動きするわね」
レナは強がって見せたが、その声はわずかに震えていた。
「あなたのおかげよ」
結衣はグローブを下ろし、小さく息を吐いた。
「あなたのラッシュがあったから、深く踏み込むタイミングが掴めそう。ありがとう」
「べ、別にアンタのためにやったわけじゃないわよ! 調子に乗るな!」
顔を赤くしてそっぽを向くレナを見て、俺は思わず口元を綻ばせた。かつては結衣を見下し、リング上で激しくぶつかり合った敵同士。だが今は、互いを高め合う好敵手としての絆が芽生えている。
スパーリングが一段落し、二人がリングを降りて水分補給をしていると、ジムの重い鉄扉が再び開いた。
「……おい」
不機嫌そうな低い声とともに現れたのは、中学生離れした体格の少年だった。
堂本翔。
かつて結衣を執拗にいじめ、自尊心を奪い続けていた主犯格。スパーリングで結衣に圧倒的な力で敗北して以来、彼はすっかり鳴りを潜めていたはずだった。
堂本は気まずそうに視線を彷徨わせた後、手に持っていた段ボール箱を床にドンと置いた。
「外に置きっぱなしになってたロードワーク用の重り、中に運んどいたぞ。雨が降りそうだったからな」
ぶっきらぼうな言い草に、俺は目を丸くした。
「堂本……お前、手伝ってくれたのか」
「勘違いすんな。通りかかったら邪魔だったからどかしただけだ。てめえらのためじゃねえ」
堂本は顔をしかめ、ポケットに両手を突っ込んだ。
結衣はタオルで汗を拭いながら、堂本の方へ歩み寄る。かつては彼の姿を見るだけで過呼吸を起こしかけていた娘が、今は真っ直ぐに彼の目を見据えていた。
「ありがとう、堂本くん。助かったわ」
「……っ、別に礼を言われる筋合いはねえよ」
堂本は舌打ちをし、そそくさと背を向けた。だが、その足取りはどこか逃げるようで、耳の裏が赤く染まっているのが見えた。
「なによアイツ、態度悪いわね」
レナがスポーツドリンクを飲みながら、堂本の背中を睨みつける。
「でも、悪い人じゃないみたい」
結衣は小さく微笑み、箱から重りを取り出して足首に巻き付けた。
俺はその光景を、リングサイドから静かに見守っていた。
結衣の周りには、いつの間にか確かな絆の輪が広がっている。かつて彼女を傷つけた者、立ちはだかった敵。彼らが今、不器用ながらも結衣の背中を押し、全国という未知の舞台へ向かう彼女を支えようとしている。
ボクシングという共通言語が、バラバラだった人間たちを繋ぎ合わせていた。
娘はもう、一人で怯えていた少女ではない。多くの想いを背負い、リングに立つ立派なボクサーだ。
「父さん、次のセット、お願いしてもいい?」
結衣がグローブを叩き合わせ、俺を呼ぶ。
「ああ、今行く」
俺はミットを両手にはめ、再びリングへ上がった。
レナと堂本という思わぬ訪問者のおかげで、ジムの空気は熱を帯びている。結衣のパンチはさらに鋭さを増し、俺の構えるミットに重い衝撃を叩き込み続けた。
二時間の過酷な特訓が終わり、レナも堂本も帰路についた。
静寂を取り戻したジムの中で、俺は一人、パイプ椅子に腰を下ろした。
結衣はシャワールームで汗を流している。水の音が遠くで響く中、俺はこっそりと右腕の袖をまくり上げた。
前腕から肘にかけて、どす黒い痣が広がっている。
クーラーボックスから氷嚢を取り出し、患部に押し当てる。だが、氷の冷たさでは到底誤魔化しきれないほどの、鈍く深い痛みが骨の髄まで響いていた。
結衣の才能は、俺の想像を遥かに超える速度で開花している。
あの未完成の迎撃技を実戦レベルに引き上げるため、彼女は何度も何度も深く踏み込み、全体重を乗せた拳を俺のミットに叩き込んできた。
その威力を受け止めるたび、俺の右腕の筋繊維は悲鳴を上げ、確実に破壊されつつある。
「……くっ」
痛みに耐えかねて、小さく呻き声が漏れた。
現役時代に負った古傷とは違う。これは、娘の圧倒的な才能がもたらした新たな代償だ。
結衣には、この痛みを絶対に悟られてはならない。もし俺の腕が限界を迎えていると知れば、彼女は間違いなくボクシングを辞めてしまうだろう。自分が教えたボクシングが原因で娘が深く傷つくこと。それだけは、何としても避けなければならない。
シャワールームの水の音が止まった。
俺は慌てて氷嚢を隠し、袖を下ろして痣を覆い隠す。
「お待たせ、父さん。帰ろう」
タオルで髪を拭きながら出てきた結衣は、充実感に満ちた明るい表情をしていた。
「ああ、戸締まりをしていくから、先に出といてくれ」
「うん、わかった」
結衣の足音がジムの外へ遠ざかっていく。
俺は右腕を庇うようにして立ち上がり、照明のスイッチに手を伸ばした。
暗闇に沈むリングを見つめながら、俺は奥歯を噛み締める。
結衣の成長は加速し、全国の怪物たちと渡り合うための確かな手応えを掴みつつある。だがその一方で、俺の腕の限界は静かに、しかし確実に近づいていた。
この隠し事は、果たしていつまで保つのか。
全国大会のリングに娘を送り出すその日まで、俺の右腕はミットを構え続けることができるのだろうか。
答えの出ない問いを胸の奥に押し込め、俺は重い鉄扉を閉めた。




