傘の下
「じゃあ、今日はそろそろお開きにしようか」
行哉が飲んでいた酒が空になったタイミングで、スマホの時計を確認してそう口にした。
「もう? まだ飲みたい気分なんだけど、中原くん」
「楠見さん、最初に言ったけれどキャンセルの空きにねじ込んでもらっただけなので、二時間だけって話だったんですよ」
「そうだったんだ。なら、仕方ないか」
酒に少し酔っていつもより砕けた表情の小和が、残念そうに口にした。
一足先に行哉が個室を出て会計に向かい、颯太はひとりシラフということで小和を待ちながら忘れ物がないかチェックした。
少し遅れて颯太と小和がレジまでやってくると、行哉とモデルをしているというあの女性店員が話し込んでいた。
「ごめん、行哉。いくら?」
颯太が財布を取りだしながら尋ねると、行哉は店員との話を切り上げ、颯太と小和に目を向ける。
「一人四千円くらいだね」
そう行哉が答えると、それぞれが財布からお金を取り出してキャッシュトレーに置き、清算をすませた。
颯太と小和がエレベーターのボタンを押して来るのを待つ間も、行哉はレジで女性店員と話し込んでいて、エレベーターが到着すると同時に話をやめて一緒に乗り込んだ。
エレベーターを降りて、ビルの出口の前で三人は足を止めた。
「雨、降ってきちゃったな」
颯太がビルの陰から空を見上げながら、苦々しく呟く。隣で行哉も同じように空を見上げる。
「これはちょっと止みそうにないな。近くのコンビニで傘買ってくるわ」
「それなら折り畳みの傘あるし、俺が行ってくるよ」
そう言いながら、颯太は傘を取り出そうと鞄の中に手を入れる。
「ついでに買いたいものがあるからいいんだよ。颯太は楠見さんを支えとけ」
「どういうこと?」
颯太の疑問はもっともだった。小和が歩けないほど酔っている様子はなく、普通に歩いているように見えていた。
「楠見さん、足、相当痛いでしょ? 靴ずれ起こしてますよね?」
小和は小さく頷いた。
「そういうことだから、颯太は楠見さんに肩でも貸してやれ。で、俺には持ってる傘貸してくれ」
「ああ、分かった」
颯太から傘を受け取ると、行哉は小ぶりな折りたたみ傘を差して雨の中に飛び出していった。
それを見送ると、颯太は「小和さん、大丈夫ですか?」と声を掛けながらすぐ隣に立った。靴ずれと聞いても颯太にはパッと見では分からなかった。本当に辛いのなら座れる場所を、と辺りを見回すが、雨で濡れた靴で出入りがあったせいで、階段も床も濡れていた。
「行哉が言ったからではないですが、肩でも腕でも貸しますので好きに使ってください、小和さん」
「ありがとう、颯太くん」
小和は少しだけ戸惑いつつ、颯太の肩に触れ、そのままゆっくりと寄り掛かった。
身体に感じる自分のものではない体温に、気まずさと緊張から二人の間には沈黙がおりる。
それでも、世界には音が溢れていた。
建物の壁や屋根、近くの路面に当たる雨の音。
路地を抜けた先にある河原町通を、水しぶきをあげながら走る車の音。
どこからか聞こえてくる話し声や靴の音。
二人のいるビルの中からも、漏れ聞こえてくるBGMや楽し気な喧騒。
そのなかで颯太と小和は、お互いの温もりをたしかに感じながら、ただ時間の流れに身を任せるしかなかった。
そこに、雨の中を小走りする足音が近づいてきて、二人の前で止まった。
「本当に肩を貸してるとは思わなかったよ」
「肩を貸しとけ、って言ったのは行哉だろ?」
行哉は颯太の不満に満ちた言葉を聞き流しながら、颯太から借りた折り畳み傘をたたみ、手に持っていた大きめのビニール傘と一緒に近くの壁に立てかけた。
「楠見さん、どっちの足ですか?」
「えっと……右」
「分かりました。颯太はそのまま楠見さんに肩を貸しとけよ」
行哉はそう言うと、ズボンのポケットに突っ込んでいた絆創膏を取り出し、小和の右足の前に片膝を立ててしゃがんだ。
「楠見さん、靴脱いで足を俺の膝に置いてもらえますか?」
「なに言ってんの? それに床、濡れてるじゃん。汚れるよ?」
「そんなことはいいですから、早くしてください」
そこまでされて断るのも悪いと思った小和は、颯太に身体を預けながらサンダルのストラップのホックに手を伸ばすもうまく外せなかった。それを行哉が手を貸して外しサンダルを脱がして、小和の足を自分の膝へと乗せる。
「ああ……これかなり痛かったでしょ? ベルトが当たってた場所が擦れて、血が滲んでるじゃないですか」
そう言いながらも行哉は手早く買ったばかりの絆創膏を貼っていく。それが終わると、行哉は小和の足に負担がかからないように丁寧にゆっくりとサンダルを履かせた。
それはまるでおとぎ話の王子が、ガラスの靴を履かせているようだった。
「ありがとう、かなり楽になった」
小和は名残惜しさを感じながら颯太から手を離した。
「それにしても行哉。よく小和さんが靴ずれしてるって気付いたね」
「ああ、私もそれ気になった。上手く誤魔化せてると思ったけど」
行哉は立ち上がり膝の部分を手で払いながら、
「気付いたのは、俺じゃないよ」
そう颯太と小和の疑問に答える。二人の顔に同時に混乱の色が混じるのを見て、行哉は渋々種明かしをする。
「会計のときレジで話してた店員覚えてる?」
「もちろん。中原くんの知り合いのモデルさんで、このお店を紹介してくれた人だよね?」
「そう。亜矢さんって言うんだけどさ、何度か注文を取りに来たりしてたよね。そのときにしゃがんで視線が低くなるから、楠見さんがテーブルの下で足を気にしているのがたまたま目に入ったんだって。それが気になってて、会計で個室から歩いてくるのを見て確信したらしくって、教えてくれたんだよ」
「じゃあ、私、お礼言わなきゃ……」
「楠見さんの代わりに俺が伝えるので、気にしないでください。それに今から行っても、仕事の邪魔になるだけでしょ」
行哉の正論と気遣いに、小和は何も言えなくなってしまった。
「じゃあ、俺は亜矢さんの仕事終わるまで待つ約束してるから、時間つぶしに馴染みのバーに行くわ。颯太、傘借りてくな」
行哉が立てかけていた颯太の折り畳み傘を手にする。
「別にいいけど、俺と小和さんはどうするんだよ」
「もう一本傘あるだろ? 小和さんは足の調子がよくないんだから、颯太が責任もって家まできっちり送るんだぞ」
そう言うと、行哉はコンビニで買ったばかりのビニール傘を颯太に押し付けて、「それじゃあ、また明日」と折り畳み傘を差して雨の中へと飛び出していった。
取り残された颯太と小和はしばらく唖然としていた。
そのなかで颯太は、小和を家に無事に送り届けるということに関しては納得できた。
これから地下鉄やバスを乗り継いで帰るにしても、混雑した車内の中で小和を支える人がいる。
雨に濡れて足元が滑るので、単純に小和が心配だという気持ちもあった。
颯太は覚悟を決め、ひとつ大きく息を吐いた。
「それじゃあ、小和さん。俺たちは帰りましょうか?」
「あっ……えっと、そうね」
颯太は新品のビニール傘を開き、雨の中に一歩踏み出した。
「小和さんも早く入ってください」
「私、折り畳み持ってるよ?」
「そうだったんですか? でも、今日はこっちに入りませんか? そのほうが、小和さんが足が痛くてバランス崩したとしても、俺の腕や身体をとっさに掴めるでしょう?」
「それはそうだけど……」
躊躇する小和の腕を颯太は優しく引いて、傘の中へと迎え入れる。
傘に当たる雨の音が大きくて小和はホッとする。小雨だったら、颯太の意外な行動に、ドキッとして早くなっている鼓動の音に気付かれたかもしれないから。
颯太に合わせて歩き始め、肩が触れるだけでもどうしようもなく照れてしまい、同時に少しだけ離れてしまう。汗や酒の匂いで臭いかもしれないという不安に苛まれたから。
そして、今の自分にうんざりする。こんなにも恋愛に関して免疫がないとは、自分でも思っていなかったから。
「大丈夫ですか? 小和さん」
小和は目が回ってしまいそうなほどに余裕がなくて困っているというのに、颯太はあまりにいつも通りで、もどかしさを感じてしまう。颯太にとって、小和は恋愛対象として見られていないように感じてしまうから。
歩く足が重くなり、颯太もそれに気づいて歩くペースを落としてくれた。
その自分に向けられる優しさが嬉しかった。
「歩くペース早かったですか?」
「大丈夫だよ」
「それならよかったです。でも、合わせるの大変だったら、腕でも組みます? そのほうが濡れる心配もないし、いざというときも安心でしょ?」
颯太は恥ずかしげもなく口にする。責任感からくる発言だったが、それは小和には分からない。
小和は、その言葉の裏に年頃の男子の下心があってほしいと期待してしまう。同時に相手が颯太なので、現実はそんなに甘くないと思いながら。
そうやって、二人は傘の下ですれ違いつづける。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
小和は顔が熱くなるのを感じながら、颯太が傘を持つ手に自分の腕を回した。
その瞬間、触れた腕越しに颯太が身体を強張らせたのが分かった。至近距離で顔を見上げると、颯太は視線を逸らして遠くを見つめていた。
颯太の緊張が伝わってきて、同じだったんだと分かると小和は頬を緩ませ、そっと目を伏せた。
ぎこちなく揺れる相合傘の二人にも梅雨の雨は降り注ぎ、歩く濡れた路面は街の明るさを映していた――。




