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君は梅雨に咲く  作者: たれねこ
第3章 君と過ごす二度目の梅雨

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哀しみの海へと沈んで

 病院内にあるカフェで、颯太と景子は同じテーブルに向かい合って座っていた。

 テーブルの上には、二人分のホットコーヒーとサンドイッチが並んでいて、テーブルの下には持ってきたボストンバッグと颯太のリュックが置かれていた。


「颯太くん、付いてきてくれてありがとね」

「いえ。付いてきただけで、俺は何も……」


 景子の顔を真っ直ぐに見ることができず、颯太は目を伏せた。お腹が空いているはずなのに、なかなか食べる気にならず、ひとくちかじっただけのタマゴサンドが目に入った。


「そんなことないよ。私ひとりだったら、蒼依を連れてくるのも大変だったかもしれない。それにこうして待っているしかできない時間を、今みたいに落ち着いていられたか……」

「俺は落ち着きません……すごく不安で……」

「私も不安なのは一緒。いつもは一人で蒼依の検査結果を待ちながら、その不安に潰されそうになってるもの。お父さんに連絡はしても、こうしてそばにいてくれるわけじゃないから」


 颯太は顔を上げて、景子の顔を見た。颯太以上に不安を抱えているはずなのに、今は颯太を気遣うように優しい表情を向けてくれていた。

 この人にこれ以上心労を与えてはいけないと颯太は思い、少し無理して食べかけのサンドイッチを頬張った。それを景子は穏やかな表情を浮かべながら見ていた。


「それで颯太くん。説明はしなくても、もうアオに何が起こってるのか気付いてるのよね?」

「はい。また蒼依が眠ってしまうんですよね?」

「ええ、そうよ。紫陽花の方には前兆が出始めていたけど、アオにはほとんど何もでてなかったから、今年はもう少し先だと思ってたのよね」

「前兆……ですか?」


 颯太が聞き返すと、景子は小さく頷いた。


「アオは梅雨が終わりに近づくほどに、眠っている時間が長くなるの。今日みたいに起きているのがだんだんと辛そうになって、そのまま眠っている時間が長くなって目が覚めなくなる。それが今年は急に来たの」

「そうだったんですね」


 そう相槌を打ちながら、去年のことを思い返していた。

 去年は蒼依に分かりやすい前兆が出始めた時期は、大学の試験やバイトにと忙しかった時期と重なり、そういう変化があったことを知ることすらできなかった。

 今年も講義やバイト、SNSに投稿するための写真撮影にと毎日忙しかったが、時間を見つけて蒼依に会いに行っていた。それでも、もっと会いに行けばよかったという後悔が、じわりと胸の中に広がっていく。


「紫陽花の方の前兆というのは?」

「それは今年の花が終わりに近づいているのが見て取れてたからね」

「そうなんですか? 俺の目には、色が少し薄れてきたようにしか……」


 蒼依の家を訪ねたときに、紫陽花を横目で見ることが颯太のクセになっていた。

 今日も紫陽花は、赤い花をつけていた。ただ梅雨の初めに見た鮮やかな赤というわけではなかった。


「桜の花が散るみたいに分かりやすいものではないけれど、毎日手入れしてるとちゃんと分かるものよ。颯太くんの言った装飾花の色もそうだけど、真花《しんか》の方が今年はもう枯れ始めていたの。天気予報もチェックしていて、梅雨明けとは言われてなかったし、アオも昨日までは少し起きるのが遅くなったくらいだったから、もう少し先かなって勝手に期待してたのよね」


 今年の梅雨は例年に比べても雨が少なめで、ここ数日は晴れの日が続いていた。

 颯太も毎日天気予報はチェックしていて、写真映えしやすい晴れになればいいのにと思いながら、蒼依といられる梅雨が続けばいいのにという矛盾した気持ちを抱えながら、日々を過ごしていた。


「もっと蒼依と一緒にいればよかったな……」


 心の声がつい言葉になって漏れてしまい、それを聞いた景子はフッと小さな笑みを浮かべていた。


「ありがとね、颯太くん。颯太くんと出会った去年からアオは明るくなったし、今年のアオは事故に遭う前をあわせても、一番いい表情で毎日を過ごしていたわ」

「そうだったんですね。きっとそれは俺も同じなんです。蒼依といた時間が楽しくて仕方なかったですから」


 景子の前では恥ずかしくて言葉にはしなかったが、颯太は初めての彼女にどこか浮かれていて、蒼依とただ一緒にいられるだけで幸せだった。

 蒼依との日々を思い出して、颯太はつい笑みを浮かべてしまう。


 今年の梅雨は特別で、色々なことがあった。

 今いるこの病院で蒼依の奇病について知り、そして恋人になった。

 それからはあっという間で、何度もデートをして、同じ時間を共有して、ホタルを見た夜にはキスもした。


 サンドイッチを食べ終えた颯太は、鞄の中からタブレットを取り出して、今年撮った蒼依の写真を見直していく。

 颯太が見ているのは、『to blue』には投稿することはない自分が撮りたくて撮った自分のためのの写真の数々。

 幸せそうで、楽しそうで、生き生きとした表情を浮かべる蒼依が写真の中にいた。


「颯太くん、さっきから笑顔になってるけど何を見ているの?」

「今年撮った蒼依の写真を見てました」

「私にも見せてくれる?」

「いいですよ」


 颯太からタブレットを受け取り、景子も写真を見ていく。


「やっぱり颯太くんの前でのアオが、一番かわいいわね」


 景子も思わず笑みをこぼしていて、そのまま蒼依の検査結果を待つ間、蒼依の写真を中心にタブレットで颯太の撮った写真を見ていた。


 その日、蒼依は目を覚ますことはなく、そのまま入院することになった――。



 *



「颯太くん、今日はありがとね」

「いえ、俺の方こそ最後まで一緒にいさせてもらって、ありがとうございます」


 病院からタクシーで帰ってきた玄関先で、颯太と景子は言葉を交わした。

 二人の頭上に広がる空は、夜が広がっていた。


「毎年のことだけど、こうして一人で帰るのが一番辛い時間だから、颯太くんがいてくれて本当によかったわ。ねえ、颯太くん、まだ時間は大丈夫?」

「はい、大丈夫です」


 颯太は、今日の予定は全部キャンセルしていた。

 蒼依に何もなければ、夕方から写真部のミーティングに出て、行哉や後輩と話をしたり写真を見せ合ったり、もしかするとその場のノリでどこかに撮影に行っていたかもしれない。

 写真部の活動が終われば、行哉と小和へのお礼に行く店を探しに京都駅付近に足を伸ばしてみようと話をしていた。そこでご飯を食べながら、行哉と約束していたコンポジット合成を使った撮影の件を詰めたりするはずだった。

 病院で待っている間に、行哉には行けなくなったと連絡していた。

 行哉は何かを感じ取っているようで、何も聞かずにいてくれた。


「ありがとう、颯太くん。じゃあ、家に上がって」


 景子に付いて家に入ると、淋しさと空虚さを感じてしまう。

 つい数時間前までには、当たり前にここに蒼依がいて、昨日までなら蒼依の笑顔や声に出迎えられていた。

 胸の奥が締め付けられるような苦しさに苛まれる。

 電気が付けられていき、明るくなった廊下を抜け、リビングに通される。ソファーには、畳まれていないブランケットが無造作に置かれていた。

 蒼依の気配が残っているのに、蒼依がいないことが辛く、耐え切れずに景子がいるキッチンスペースの方へと颯太は向かった。

 何度も蒼依や景子と食卓を囲んだダイニングテーブルの上には、誰も手をつけられないまま冷めて放置されたホットケーキが三人分並んでいた。

 本当は笑顔で一緒に食べるはずだったのにと思うと、悲しみが胸の中に広がっていく。

 颯太は景子が感じている気持ちの一端に触れ、同じ苦しみを感じていた。これが蒼依が目覚めるまで続くのだと思うと息をするのも辛くなってくる。

 そう思うと、去年蒼依の写真を他大学との合同写真展で使っていいかと許可をもらいに来たときに、嫌悪感を向けられたことも理解できる気がした。

 大事な人がいなくなってすぐの気が滅入っているところに、無邪気に踏み込まれたり、軽々しく覚悟を語られるのは、癪に障るに決まっている。


「颯太くん、大丈夫?」

「は、はい。大丈夫です。あの……ホットケーキ食べていいですか? 蒼依の分も」


 景子には今の颯太が、痛いほど理解できていた。

 蒼依がいないという現実に苦しみながら、それでも自傷するかのように蒼依を少しでも感じていたいという想い。

 蒼依が事故に遭い病院で眠っている間、蒼依の部屋で蒼依がいるということを感じようとしていたかつての自身の姿を重ねていた。


「電子レンジで温める?」

「このままでいいです。淹れていたコーヒーも蒼依の分も俺が飲みます」

「分かったわ。せめて、コーヒーくらいは温めさせて」


 冷めて硬くなったホットケーキと味がぼやけた温かいコーヒーを、颯太は忘れることはないと思った。

 それを食べ終えると、淹れ直したコーヒーを手に景子と向き合った。


「蒼依がいなくても、また来てもいいですか?」

「ええ。もちろん。顔を見せに来るだけでもいいから、いつでもおいで」

「ありがとうございます」

「お礼なんていいのよ。颯太くんはアオの特別な人だもの。それに私もひとりでこの家でご飯を食べたりするのは時々辛いのよ」

「はい。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」

「そんなかしこまらないで。そうだ、来週末にお父さんが帰ってくる予定だったから、よかったら会ってもらえないかな? 颯太くん、会ったことなかったでしょ?」


 蒼依の父と颯太は、今まですれ違っていた。

 蒼依の父は、連休や年末年始の他に月に一度のペースで単身赴任先から帰ってきている。

 去年はバイトや試験の準備で忙しい時期と重なり会えずじまいで、今年も先月帰ってきていたが家族の時間を邪魔したくなくて、颯太は遠慮していた。


「はい、俺も会ってみたいです」

「よかった。ずっと颯太くんに会いたがってたのよ」


 景子はそう言って笑みを浮かべるが、どこか無理しているのが嫌でも分かってしまう。

 きっと景子にも颯太が無理しているのは同じように伝わっていて、似ている傷と痛みを通じて、蒼依に想いを馳せることしかできなかった。

 まるでゆっくりと哀しみの海へと沈んでいくようだった。



 *



 翌日、近畿地方の梅雨明けが発表された。

 そして、蒼依は長い眠りへと落ちていった――。

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