今年もまた梅雨が明ける
七月。
頭上には、夏を思わせるどこまでも青い空が広がっていた。風がほとんどないせいか、立っているだけでも汗がにじみ出してくるようだった。
上賀茂神社でシャトルバスから降りた颯太は、四方から聞こえてくるセミの声に嫌気を感じながら真昼の空を見上げ、目を細めた。
「あっつ……」
思わずそんな言葉がため息と一緒に漏らしつつも、カメラを空や日傘を差して歩く人に向けた。
颯太は金曜日の午後は講義がないため、写真部のミーティングの時間までは蒼依と過ごすことにしていて、今日もそのつもりで一度大学から戻ってきたところだった。
上賀茂神社から蒼依の家へと通い慣れた道を歩いた。
蒼依の家に着き、いつものようにインターホンを鳴らすと、これまたいつものように蒼依の母の景子が笑顔で迎えてくれた。
「アオ! 颯太くん、来たわよ!」
そう家の中に呼びかけ、すぐに颯太に顔を向け、
「颯太くん、お昼はウチで食べるよね?」
「はい。いつもすいません」
「いいのよ。今日はアオがまだ朝も食べてないから、ホットケーキにしようと思ってるんだけどいいかな?」
「はい。ごちそうになります」
颯太が頷くと、景子は口元に笑みを浮かべた。
景子は颯太をリビングのソファーに座るように促し、蒼依の部屋へと向かった。
それからしばらくして蒼依がリビングへと入ってきた。
寝起きなのか部屋着のままで、髪はシュシュでサイドでゆるくまとめ、おぼつかない足取りでフラフラとしていた。
「あっ、颯太。おはよう」
そう言って、蒼依はソファーに倒れ込むように横になり、颯太の膝枕で寝息を立て始めた。
初めて見る蒼依の無防備すぎる姿に驚いていると、景子がブランケットを手に近づいてきた。
「ごめんね、颯太くん」
「いえ、大丈夫です」
景子がブランケットを蒼依にそっとかけ、「すぐお昼作るから、アオのことお願いね」と言い残してキッチンへと向かった。
颯太は少し困りながらも、蒼依の顔にかかっている髪を優しく払うと、蒼依はくすぐったそうに身じろぎをした。それが愛おしくて颯太は、蒼依を起こさないようにソファーの脇に置いた鞄に手を伸ばし、カメラを取り出すと膝枕で眠る蒼依の写真を起こさないように一枚だけ撮った。
写真を撮り終えると、蒼依の重みと体温を枕にされている太ももから感じながら、蒼依の頭を優しく撫でた。
リビングには、ホットケーキの甘い匂いとコーヒーの香りがゆっくりと満ちていった。
しばらくすると、調理を終えた景子が颯太と蒼依の元へとやってきた。
「アオ。アオ、ご飯食べないの?」
ゆっくり身体をゆすりながら蒼依に声を掛けると、蒼依は「うーん……」となまめかしい声を出し、颯太の身体を支えにしながらゆっくりと身体を起こした。そのまま今度は颯太にもたれかかった。
「ごめんね、颯太くん」
「大丈夫です。それにしても、こんなに眠たそうな蒼依は初めて見ました」
「そっか。まあ、たしかにアオは颯太くんには、よく見られようとしてたからね」
景子はくすりと笑みを浮かべながら、まだまどろみの中にいる蒼依の頬を優しく指先でつついた。
蒼依はゆっくり大きく息を吐き出すと、目をゆっくりと開けた。
「お母さん? おはよ」
蒼依は目の前の景子を見て、すぐに眩しさに耐えられず目を細めた。
「アオ。颯太くん、もう来てるよ?」
「そうなの?」
「おはよう、蒼依」
「颯太? 本当に?」
すぐ近くから声が聞こえて驚いたような声を出すが、その声には張りがなく緩慢で、どこか辛そうに息を吐いて颯太の胸元に顔を埋めた。
「うん。たしかに颯太だ」
「アオ、ご飯は食べれそう?」
「今はいいかな。お母さん、水ちょうだい」
蒼依がそう言うと景子の表情に影が差した。それでもすぐに「待っててね」と優しい声音で言い残し、急いでステンレスマグに水を入れて戻ってきた。
「アオ、ひとりで飲める?」
「ごめん、お母さん。飲ませて」
景子はそう言われることを見越していたかのように、一緒に持ってきていたストロー付きの蓋をマグに取り付けて、ストローを蒼依にくわえさせた。蒼依は力なくゆっくりと水を飲んだ。
その光景を颯太は黙って見ていることしかできなかった。
「アオ。今年は“もう”なの?」
「そうみたい。ごめんね、お母さん」
「いいよ。とにかく準備してくるからそのまま待ってて。颯太くん、事情は後でちゃんと話すからアオのことお願い」
「わ、わかりました」
颯太は何が起こっているのか分からないまま、ステンレスマグを受け取り、蒼依が求めるままに水を飲ませた。
緊張から颯太は冷や汗が止まらなくなった。
ついさっきまでは、夏のような暑さに嫌気が差していたのに、いまは背中に嫌な寒気を感じていて、指先が冷え切っているのが分かるほどだった。
そのなかで蒼依に触れている部分だけが、やけに熱かった。
「ごめんね、颯太」
「何が?」
「また颯太のそばにいられなくなっちゃう」
蒼依の力ない声で語られたその一言で全てを理解してしまった。
もうすぐ蒼依は、目覚める保障がない長い眠りにつくことになるのだろう。
「いいよ。また同じように蒼依が起きるのを待ってる」
「うん。また色んなものを見て、たくさんの写真を撮って、それを私に見せてね」
「分かった。また蒼依のためにたくさん写真を撮るよ」
「今度は送らなくてもいいからね? そうしなくても待っててくれるって信じてるから」
「そう言われても、毎日のように蒼依に写真を送るよ。もう習慣みたいなものだし」
蒼依は目を閉じたまま、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ありがとう、颯太。大好きだよ」
「俺も蒼依が好きだよ」
颯太は蒼依の身体に腕を回し、ギュッと抱きしめた。
愛を伝えるために、慈しむように、壊れてしまわないように。
このまま蒼依がどこか遠くに行ってしまわないようにと願いを込めて、離さないように。
景子が大きなボストンバッグを肩から提げて、リビングに戻ってきた。
「アオ、病院行こうか。颯太くんはどうする?」
「ついて行っていいですか? 荷物持ったりします」
「ありがとう。とりあえあず颯太くんは、そのままアオに付き添ってくれる?」
「分かりました」
景子はすぐにタクシーを呼んだ。
颯太と蒼依は後部座席に座り、蒼依は颯太に力なくもたれかかり、颯太はそれを支えた。景子は助手席に座り、病院へと向かった。
病院に着くと、景子から連絡を受けていた職員と看護師が車椅子を用意して待っていた。蒼依を車椅子に乗せると、検査に連れていくと伝えて看護師が蒼依とともに行ってしまった。そのかたわらで職員と景子が話していて、蒼依たちを見送ると院内へと案内された。
「颯太くん、私は受付とか手続してくるけど、どうする?」
「待ってていいですか?」
「それはいいけど……検査にはだいぶ時間かかるだろうし、それにアオはこのまま病院に入院することになるかもしれないわよ?」
「それでも迷惑でないなら、待ちたいです」
颯太の覚悟を見て、景子は優しく颯太の肩に触れた。その手はわずかに震えていた。
「ありがとう。じゃあ……少し待っててくれないかな? お昼まだだったでしょ? 院内のカフェで一緒に食べましょ」
颯太が頷くと、景子は笑みを浮かべて見せた。その笑みは颯太にも分かるほどに無理しているのが透けて見えた。
颯太も自分では気づかないだけで、きっと同じように不安な表情をしているのかもしれないと思うと、景子に何も言わないのがいいことに思えた。
「じゃあ、荷物番しながらこの近くで待ってますね」
「ありがとう、颯太くん。本当に颯太くんがいてくれてよかったわ」
景子は強張っている表情を和らげて、手続きのために職員と受付へと向かった。
ひとり残された颯太は、吐き出すことのできない感情と不安に苛まれながら、待つことしかできなかった。
今年もまた梅雨が明ける。
例年よりも雨が少なく、早い梅雨明けになりそうだった――。




