梅雨の中休みに
紫陽花と女性の写真を撮った翌日。
梅雨の中休みというべきか、朝から晴れ空が広がっていた。
そんな颯太にとっての久しぶりの撮影日和の土曜日だというのに、午前中から大学一年生のころから続けているバイトの予定が入っていた。
颯太はカメラマンのアシスタントをしていて、撮影の補助や荷物運びなどの雑用が主な仕事だけれど、プロの仕事を間近で見れるということがいい経験になっていた。
それだけでなく空いた時間に、颯太が撮った写真を見てもらって、感想やアドバイスをもらったりしていた。
今日の仕事内容は、午前中は四条大宮にある事務所兼スタジオでECサイト用の商品撮影をし、昼からは西大路で講演会の記録撮影やスナップ撮影というもので、せっかくの気持ちのいい晴れた日だというのに屋内にこもりきりだった。
仕事を終えた颯太は、事務所から出てすぐに空を見上げた。太陽は西に傾き始めていて、雲は薄っすらとかかってはいたが雨の気配は感じなかった。
颯太はそんな空を何気なく撮影したくなり、カメラを鞄から取り出した。
今日のカメラは大学に入ってから買ったコンパクトデジカメで、その携帯しやすさや気軽さから普段から鞄に入れて持ち歩いているものだった。
颯太は、カメラを空に向ける。
京都市特有の建物の高さ制限のせいもあり、建物に囲まれている路地の中でも空は広く見える。
そんな建物の一部や電線が映り込むように、空の写真を撮った。
薄っすらと雲がかかっていても、梅雨の最中と考えると少しだけ特別感のある空に見え、それは日常の中に潜むちょっとした幸運のように感じていた。
カメラを鞄にしまい、少しだけ気合いを入れ直して、昨日写真を撮ったフェンスからはみ出るほどの紫陽花が咲いていたあの家に向かうことにした。
地下鉄とバスを乗り継いで、上賀茂神社まで戻ってきて、そこからは昨日と同じ道を歩いた。
そうして、家の前に着いたけれど、昨日と同じように都合よくあの女性がいるという偶然はなかったが、赤い紫陽花は今日も鮮やかに咲き誇っていた。
昔ながらの石積みの門柱には、“綾崎”と書かれた表札があった。
もしかするとそれがあの女性の苗字なのかもしれないと考えると同時に、これから知らない家のインターホンを押すということに対する緊張感が颯太の中で増していく。
一度大きく深呼吸をして、颯太は覚悟を決める。
鞄の中からタブレットを取りだし、いつでも写真を見せられるように準備をし、重たい足取りで敷地に踏み入り、玄関脇のインターホンを押した。
しかし、誰も出てくる気配はなかった。もう一度インターホンを押すけれど、やはり反応は返ってこなかった。
颯太は大きく息を吐き出し、残念と思うと同時にどこかホッと安堵していた。
ふと目に入った綾崎家の庭は、手入れが行き届いているのは一目瞭然で、道路沿いに植えられている紫陽花の花の赤色と葉の濃い緑のコントラストに目を奪われた。
この光景を写真に収めたいという欲求が湧き上がるも、見知らぬ人の庭に入り込んで勝手に撮影するというのはさすがに憚られ、グッとこらえて、家に帰ることにした。
颯太が一人暮らしをしているのは、上賀茂神社から北に十分ほど歩いた場所にあるアパートだった。
部屋の中に入り、鞄を下ろしてひと息ついた。それから、写真のことを報告と相談をしようとスマホを取りだし、小和に電話をかけた。
「颯太くん? 急にどうしたの?」
スマホから聞こえてくる小和の声に、颯太は不思議と安心感を感じていた。
「小和さん、いきなりでごめんなさい。さっきバイト帰りに写真の許可を取りに行ったんですけど、誰もいなくて……」
「それは残念だったね。それで、どうするの?」
颯太は通話中のスマホから耳を離し、時間を確認した。
十七時過ぎ――これからもう一度行ったとして、まだ迷惑にならないし、非常識でもない時間。
初対面で警戒しているだろう相手に自己紹介をし、写真に写っている女性のことを尋ねる。その返答次第で女性のことを知っているかさらに聞くか、写真展の説明と写真を使う許可をもらう交渉をする。
できないことはないけれど、朝からバイトで気を張り続けていて、家に帰ってきたことで気が抜け、疲労を自覚してしまっている今の颯太には、それを実行するだけの余力は残っていなかった。
「明日もう一度、行ってみようかなって思ってます」
「そっか。分かった」
颯太は拍子抜けしてしまった。
小和なら、今からもう一度行け、と言ってくるものとばかり思っていたので、身構えてしまっていた。
そんな颯太の内心を見透かしているかのように、
「ねえ、颯太くん。もしかして、私に怒られると思ってた?」
そう小和に核心を突かれ、すぐに言葉が出てこなかった。
「えっと……怒られても仕方ないかなとは……」
「怒るとしたら、そうね……さっきの報告が嘘だったか、そもそも行ってなかったときだけだよ」
小和は厳しいけれど、理不尽ではない。昨日、写真の件で小言を言われたのは、颯太に完全に非があることだった。
普通にしていれば、優しくて気が回るいい先輩だということは、颯太はよく知っていた。
ただ距離が近づいて、見えにくくなっていた。
「ねえ、颯太くん。これから時間ある?」
「ありますけど……もしかして、やっぱり今から行けって言うんですか?」
颯太の焦ったような反応に、小和はクスクスと笑う。
「言わないって。ねえ、よかったら一緒にご飯食べに行かない?」
「ああ、ご飯。もちろんいいですよ。それでどこに行くんですか?」
颯太は小和からの突然の誘いに驚きこそすれ、一緒にご飯を食べに行くことは珍しくないので、いつものように快諾した。
「せっかくだし、河原町あたりまで行かない?」
颯太は、それにはすぐに返事ができなかった。
小和が住んでいるマンションがあるのは、颯太が住んでいるアパートから賀茂川を挟んで向こう側の西賀茂という地域だ。歩いても、十分ほどの距離しか離れていない。
だから、小和とご飯を食べに行くときは、基本的には近場ですませることが多い。
上賀茂神社からすぐの御園橋通りにある中華料理のチェーン店や、個人経営のお好み焼き屋。
御園橋通りから、ひとつ北の通りに入ったところにある学生向けの定食屋。
西賀茂の周辺なら、洋食屋やイタリアンレストランもある。
それ以外にも探せば、徒歩で行ける範囲内に多くの飲食店がある。
それなのに、わざわざ地下鉄などを乗り継いで河原町まで行こうと誘われているのだ。
「もしかして、嫌……だった?」
「嫌なわけないじゃないですか!!」
珍しく不安そうな小和の声に、颯太は慌てて返答したせいで存外大きな声が出た。
そのことに颯太自身も驚いていたが、小和も驚いているのか、なんともくすぐったい間が生まれた。
それから、電話の向こう側でくすりと笑う気配があり、颯太はその表情を容易に想像できた。
「よかった。じゃあ、待ち合わせは北大路駅でいいかな?」
「いいですけど、小和さんとは家近いし、西賀茂のコンビニ近くのバス停とかでもよくないですか?」
「よくない。なんとなく北大路駅な気分なの」
「はあ……分からないけど、分かりました」
「なにそれ?」
そう言って、機嫌良さそうに笑う小和の声が耳に心地よかった。
「それじゃあ、颯太くん。時間は……六時半で大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「よかった。じゃあ、また後でね」
通話を終えた颯太は、窓の外を眺めた。
昨日とは違い夕焼けが出ていないけれど、まだかなり明るかった。
このまま家で時間を潰そうにも、写真の編集をするには時間は中途半端だった。
そのとき、颯太はふいに思いついた。
いまから歩いて北大路駅に向かいながら、この時間ならではの写真が撮ってみたいと。
仮に早く着いても、駅ビル内に設置されている椅子やコーヒーショップで撮ったばかりの写真を確認しながら時間を潰せばいいだけだった。
それは、なかなかにいい案に思えた。
颯太は鞄を手に玄関の扉を開け、空を見上げた。
まだ雨の降る気配がない空に口元を緩ませ、雨が降っても折り畳み傘が鞄にあるからと自分に言い訳をし、玄関脇に立てかけている大きめの傘をあえて持たずに、家を飛び出した。




