来年は
「それじゃあ、いってくるね。お母さん」
晩ご飯を食べ終えると、ゆっくりする間もなく颯太と蒼依は、ホタルを見に上賀茂神社へと再度向かうことにした。
「二人とも、いってらっしゃい」
玄関先で景子は二人に声を掛けた。蒼依はそれに頷きながら、寄り添うように立つ颯太を肘でそっと小突いた。颯太が蒼依の方に目を向けると、声に出さずに“行ってきます、は?”と口の動きで伝えられた。
「……いってきます」
颯太は口に出しながら、胸の奥がむずがゆくなった。
「はい。いってらっしゃい」
颯太の気持ちを知ってか知らずか、景子は笑みを深くして二人を見送った。
外は日がすっかりと沈んでいて、肌に触れる空気は雨の前のような湿った重さが感じられた。
街灯と周囲の家から漏れる明かりが照らす道路を、颯太と蒼依は手をしっかりと繋いで歩いた。
「こんなに幸せでいいのかな?」
蒼依はしみじみと呟いた。
それはどこから聞こえてくる虫の鳴き声にかき消されそうなほど小声で、颯太も隣にいなければ聞き漏らしてしまうところだった。
「いいんだよ。蒼依は幸せでいてくれないと俺が困るよ」
「それだと颯太の幸せは?」
「蒼依といることが幸せだし、蒼依の写真を撮ったり、それを編集したり見直してる時間が幸せ。もちろん、いまこうして一緒に歩いてるのもね」
颯太が素直に言葉にすると、隣で蒼依がフッと笑みをこぼすような気配がした。
「もしかして笑われてる?」
「ううん。幸せ過ぎて笑うのをこらえられなかっただけ」
街灯の下を通るときに隣を歩く蒼依の横顔を覗き見ると、心から嬉しそうな笑みを浮かべていていた。
「こんな時間がずっと続けばいいのに」
そう言う蒼依の声には、嬉しさに不安や寂しさが混じっているようで。
うかつに頷くこともできず、返す言葉も思いつかなかった颯太は、蒼依がどこにも行ってしまわないように、繋ぎとめるように、手をギュッと握るしかできなかった。
そんな颯太の心情を分かっているからか、蒼依も手を握り返し、身体を寄せた。
いまだけは言葉は不要で、お互いの存在を感じながら、上賀茂神社まで歩いた。
上賀茂神社に辿り着き、一の鳥居を抜けて、ならの小川へ。
小川に近づくほどに、人影と一緒にホタルの明滅する緑の光も肉眼でしっかり見えるようになった。
小川の近くで三脚を立ててカメラを構えている人や、小川のすぐ脇に屈んでいる三人組の女性の姿も見える。
いま颯太たちの周囲には、両手の指で数えれるほどの人しかおらず、目の前に広がるのは自由に悠々と飛び回る多くのホタルの光。
「綺麗――」
「うん、本当にね」
颯太は撮影することも忘れて、蒼依と一緒にホタルの光を一緒にただ眺めた。
蒼依に手を引かれながら、ゆっくりと川のすぐそばまで寄って行き、屈んで飛んでいるホタルを見つめた。
しばらくすると蒼依の浴衣の袖に一匹のホタルが止まって、そこで淡い緑の光を放っていた。その光景をしばらく見ていると、
「颯太、写真撮らないの?」
「完全に忘れてた」
蒼依に指摘され、颯太は慌てて撮影の準備を始めた。
ホタルに刺激を与えないように、少し離れた場所で遠くの街灯などの明かりを頼りに手早く三脚を組み立て、カメラの設定を調整していく。
試し撮りに、蒼依の後ろ姿を撮影した。
シャッターを長めに開けて撮影し、撮ったばかりの写真を確認するとホタルの光跡がしっかりと写っていた。
「よしっ」
颯太が小さくガッツポーズしていると、その思わず漏れた声に気付いた蒼依が立ち上がって颯太の元へと寄ってきた。
「撮れた?」
「うん。けっこういい感じ。ほら」
蒼依は腰を曲げて、颯太の横からカメラのモニターを覗き込んだ。
「いいね。ホタルの光ってこういう風に写るんだね」
「うん。これはシャッターを五秒開けて撮ったんだ。もっと長く開ければ、光の筋の長さや写る光の量は増えるとは思うよ。だけどなあ……」
「だけど?」
「シャッター開けてる間は、蒼依には動かないでいてもらわないといけないんだ。そうしないとブレたりして、少し残念な写真になるんだよ」
「どれくらい動かずにいたらいいの?」
「五秒から八秒かな。大変そうなら無理しなくていいから。大事なのはホタルを一緒に見ることなんだしさ」
颯太と蒼依は、わずかな明かりの中で顔を見つめ合っていた。
ふいに蒼依はくすりと笑みをこぼした。
「写真撮ろうよ。辛くなったらちゃんと言うから」
「ありがと、蒼依」
それから写真を撮るときの合図として手の平を蒼依に向け、シャッターを押している時間を指でカウントし、指を全て曲げ終わったら動いてもいいという取り決めを作った。
そうして、ホタルを見ながら写真を撮っていった。
ならの小川沿いに屈んだ蒼依とその周りやカメラの前を横切るホタルを、蒼依の横や後ろ、川の反対側からなど、角度や構図を変えて写真に収めた。
他にも上賀茂神社の敷地の境を示す赤い柵と酒殿橋が写り込む場所や、なら鳥居を背景にして写真を撮った。
「いっぱい撮ったね、颯太」
ひと通り撮りたい画角で写真を撮り終え、並んでホタルを眺めながら蒼依がホッと息を吐きながら口にした。
「うん、ありがとう。蒼依」
「帰ったら、見せてもらってもいい?」
「いいけど、ほとんどは上手く撮れてないと思うよ」
「そうなの? でも、それでもいいよ。お母さんにも早く見せたいし、きっと見たいと思ってると思うのよね」
「今日、美味しい晩ご飯食べさせてもらったお礼くらいにはなるかな?」
蒼依は小さく噴き出して、声を殺してクスクスと笑い始めた。
そこにホタルの光がひとつ近づいてきた。
そのホタルに気付いて、蒼依は顔の前に人差し指を軽く折り曲げてそっとしていると、そこにホタルが止まり、淡い緑の光を放ち始めた。
颯太は持っていたカメラのシャッタースピードは短めにして、すぐ隣の光景にシャッターを切った。
蒼依の指の上でホタルは優しく美しい緑に光を放ち、蒼依の顔を淡く緑に染める。
そうして照らし出された蒼依の表情は、穏やかな笑みを浮かべているのにどこかしっとりとしたものを感じさせられた。
ホタルの成虫の寿命は、長くとも二週間ととても短い。
そういう命の儚さと蒼依がどうしても重なって見えてしまい、撮影した颯太の感傷も一緒に写り込んでしまったようだった。
でも、そういうことを差し置いても、
「すごく綺麗だ――」
そう思わず言葉が漏れていた。
一年前に紫陽花の前に立つ蒼依を撮ったときと同じで、ただ美しいとしか思えず、目の前の光景に目も心も奪われていた。
止まっていたホタルが、蒼依の指から飛び立っていった。
そうやって飛んでいくホタルの行き先を目で追っていると、ホタルの光の数がずいぶんと少なくなっていることに気付いた。
そして、川の水面に雨が落ちた波紋がひとつ、ふたつ。すぐに多くの雨の粒が夜の空から落ちてきた。
「帰ろっか、颯太」
「そうだね」
蒼依の持ってきていた蛇の目風の雨傘の下で颯太は急いで片付けをすませ、ひとつ傘の下で身を寄せ合うようにしながら家路へとついた。
しばらく歩いていると、傘に当たる雨の音が大きくなっていった。
「そういえば、上賀茂神社の閉門後で入れなかった境内でホタルの鑑賞ツアーしてるの知ってる?」
「いや、知らなかった」
「私も今日が楽しみで調べてるときに、初めて知ったんだ。そのツアーさ、夜間の特別参拝と夜カフェ付きで贅沢だなって思ったんだよね。でも、申し込みは一ヶ月くらい前で、しかもすぐに満席になったらしくってね」
「じゃあ、来年はそのツアーで一緒にホタルを見に行きたいね」
颯太は当たり前に、来年の梅雨のデートを提案した。
それが蒼依には嬉しかった。
もしかしたら、その日が訪れないかもしれないという考えは今の二人にはなかった。
ただまた一緒にホタルを見に行きたいという同じ願いを抱いていた。
「そうだね。来年が今から楽しみになってきた」
蒼依にとって、来年が楽しみ、という感覚は今の奇病を患ってからは初めてのことだった。
胸のドキドキが収まらなくて、蒼依は傘を差す颯太の手に抱きつくように腕を組んで歩いた。
家まで戻ってくると、蒼依は颯太の手を引いて、玄関には入らず庭のほうに抜ける道に数歩入ったところで足を止めた。
「蒼依?」
戸惑う颯太をよそに、傘の下で颯太を正面から抱きしめた。
颯太は突然のことに驚いたけれど、蒼依が濡れないように気を付けながら傘を持ってない手で蒼依を抱きしめ返した。
「今日はありがとう、颯太」
胸の辺りに蒼依の吐いた息が当たり、熱を感じた。
「俺の方こそありがと。今日もたくさん写真撮らせてもらったし、動かないでって無茶まで言ったし」
「本当だよ。そのせいで久しぶりに颯太に撮られることに、緊張しちゃったんだから。動いたらどうしようって」
蒼依は至近距離で颯太の顔を見上げて、わざとらしく頬を膨らませた。
「ごめんって」
つい謝った颯太を見て、楽しそうな笑みを蒼依は浮かべた。その表情を一番近くで、それも独占できていることが颯太は嬉しかった。
「あっ、颯太。髪に何か付いてるよ」
「本当に?」
「取ってあげるから、頭下げて」
颯太は言われるがまま頭を下げる。
蒼依は颯太の頬にそっと手で触れながら、頭を下げすぎないように颯太の動きを制限し、自身の顔を颯太に近づけた。
そして、そのまま唇をそっと重ねた――。
ゆっくりと顔を離すと、蒼依はどこかうっとりとした表情をしていた。
「ごめん。我慢できなかった」
「謝らなくていいよ。驚いたけど、嬉しかったから」
「本当に? じゃあ、もう一回いい?」
「いいよ」
今度は颯太から顔を近づけて、もう一度キスをした。
顔を離すと、お互いににやけずにはいられず、見つめ合ったまま笑い合った。
「家の中に入ろっか。さっき抱きしめたとき颯太の肩、濡れてたし」
「蒼依は濡れなかった?」
「颯太のおかげでね」
晴れやかな笑みを浮かべて蒼依は颯太の手を引いて、あらためて家の玄関へと向かった。
玄関の扉を開けて、蒼依と颯太は同じ言葉を口にした。
景子は用意していた二人分のタオルを手にリビングから出てきて、二人を笑顔で出迎えた。
「おかえりなさい――」




