笑顔の写真
降り出した雨がコンクリートを叩く音は、次第に強くなっていった。
図書館の屋根の下のベンチで、小和は雨が落ちる空をぼんやりと見上げ、その隣で蒼依は小和の撮った写真をタブレットで見ていた。
「ありがとう、小和ちゃん」
蒼依がタブレットを小和に返しながら、お礼を口にした。
「いいえ。それでどうだった?」
「小和ちゃんの写真、やっぱり好きだなあって思った」
「ありがとう。でも蒼依の一番は颯太くんの写真でしょ?」
小和が少し意地悪な言い方をしたが、蒼依にとっては事実なので「まあ、そうなんだけどさ――」と肯定の返事をしながら口元を緩ませる。
颯太から送られてきたたくさんの写真は蒼依にとって宝物で、写真を通じて颯太が見ている世界を知ることができることが喜びだった。
「でも、颯太の写真の次に小和ちゃんの写真が好き。本当だよ?」
「聞いた私も悪いけど、別にフォローしなくてもいいよ?」
「フォローじゃないよ」
蒼依の真っ直ぐに放たれる言葉が、小和を射抜く。
「小和ちゃんの写真には、見る人が優しい気持ちになれる“人の繋がり”みたいなのが写ってる気がするんだよね」
蒼依は自分が思う小和の写真のいいところを挙げ始めた。
「例えば、子供を撮った写真が多いけど、だいたいどれも周りにいる大人との関係性があるのがいいよね。母親や父親とのちょっとした触れあいだったり、周囲の人とのほのぼのとしたワンシーンだったり」
小和が今日蒼依に見せた写真にも、いくつかそういう写真が混じっていた。
例えば、バス停で並んでいる親子連れと大学生くらいの女性二人の写真。
まだ小さい男の子が、後ろに並んでいた女性二人と談笑しているところを撮ったものだった。女性二人は男の子と視線を合わせるために屈んでいて、一人が男の子と話ながら笑っている横でもう一人は母親の方に笑顔を向けていて、気を遣い合っている瞬間を切り取ったものだった。他の待っている人も、表情を崩して見守っているような微笑ましい空気感に包まれた一枚で。
他にも、まだランドセルが大きく見える小学校低学年くらいの男女数人の子供が、散歩中の大型犬と戯れている写真。
大型犬を撫でている子やそれを眺めているだけの子、犬が苦手なのか少しだけ距離を取っている子など、それぞれの犬との距離感が見える。犬の飼い主の白髪の高齢の男性は、リードをしっかりと持ったまま見守っていて、大型犬も子供に好きにされながら飼い主に視線を向けていたりと見るほどに面白さが発見できそうなほのぼのとした一枚で。
「そういう見てるとつい笑顔になるような写真が好き。でもね、個人的にはそういう写真を撮った後に、あらためて撮ってる写真がすっごい好きなんだよね」
それは小和が写真を撮ったことを伝えて、「よかったらもう一枚いいですか?」とお願いして撮っている写真のことだった。
先ほどのバス停での一枚も、バスが来る前に声を掛けて撮らせてもらった。小さな男の子を真ん中に談笑していた女性二人が両脇に屈み、三人は満面の笑みでピースをしてくれ、母親は優しい微笑みを浮かべながら男の子の肩に手を置いていた。
周りで待っていた人たちもいい人ばかりで、嫌な顔をせずに自然に見切れたり、写り込まないように気を遣ってくれた。
散歩中の犬とじゃれる小学生たちも同様で、小学生たちは犬を囲むようにして楽しそうな表情をカメラに向けてくれた。白髪の男性は、気恥ずかしかったのか最初は子供たちだけでと言っていたのだが、子供たちに引き止められたうえに一緒にとお願いされ、渋々と言った感じで写真に入ってくれた。撮った写真には、眩いばかりの子供たちの笑顔と楽しい空気を感じ取って同じように笑顔の犬、控え間に微笑み優しい皺を目元に刻む白髪の男性が映っていた。
そういう撮ったときの空気感や交わした言葉も、小和は写真を見れば思い出すことができた。
「小和ちゃんに写真を撮られる人は、つい笑顔になっちゃうし、幸せなんだよ。撮られたことがある私が言うんだから間違いないよ」
蒼依はそう力強く断言した。
小和は胸の奥がくすぐったくなった。
自分が撮った写真を、それも見せるために撮っていない写真を好きと言われるのが嬉しかった。
写真だけでなく、自分自身も肯定されたようで、心の奥から喜びが湧き上がり、胸を優しく締め付ける。
同時に蒼依と颯太は、感性が似ていると思った。
以前、同じようなことを颯太も言っていたからだ。
「ありがとう、蒼依。本当に嬉しい」
「思ったことを言っただけだよ」
「それが一番嬉しいんだって。もう、本当に蒼依、大好き!」
颯太には言えなかった言葉が、蒼依にはすんなり伝えることができた。
同じ言葉でもそれが意味することはまるで違っている、“好き”の二文字。
「私も小和ちゃんが大好き」
蒼依は目を細めて、にっこりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
小和は自身の表情は分からずとも口角が上がっていることは自覚できていて、目の前で満面の笑みを浮かべる蒼依と同じような表情をしているんだろうなと思えた。
「ねえ、蒼依。写真撮っていい? 今の蒼依を撮りたい」
「もちろん」
小和は鞄の中からデジカメを取りだし、隣に座る蒼依にカメラを向けた。
蒼依は先ほどよりも笑みを深くして、カメラのレンズ越しに小和のことを見つめていた。
図書館の外壁の灰色のタイルが見切れていて、蒼依の後ろには植え込みの緑や雨に濡れた赤茶色のレンガ舗装の通路とそこを傘を差して歩く人が見える。
蒼依と二人きりで出掛けた今日を忘れたくなくて、こんな時間が続けばいいのにという小和の願いも込めてシャッターを切った。
撮ったばかりの写真を、肩を寄せ合ってデジカメのモニターで確認した。
「言ったでしょ、小和ちゃん。私、幸せそうな顔で笑ってる」
「本当だ。こういう写真、もっといっぱい撮りたい」
「うん。いっぱい撮って。それでまた私にも見せてね」
小和は「もちろん」と頷いた。
その蒼依との会話がきっかけに、誰かの笑顔や思い出を残す仕事をしてみたいと思った。
例えば、子供の写真や家族写真を撮る写真館のような場所でバイトをしてみるのもいいかもしれない。
卒業までに残された時間はあとわずかで、それが小和に許される写真を自由に好きなように撮れるタイムリミットでもあった。
そのなかで颯太や行哉と同じように写真の世界に関わって、本気で写真と向き合いたくなった。
今までが手を抜いていたわけではないが、どこかでずっと趣味の域でしかないと感じていた。
卒業して働き出せば、自然と写真を撮る機会や時間は減っていく。
趣味の欄にカメラや写真と書けるほど機材や技術的なことに詳しいわけではないし、今みたいな写真を撮らない未来を仕方のないことだと受け入れていた。
それなのに、最後に少しだけ足掻きたくなってしまった。
「ねえ、小和ちゃん。その写真を颯太に送ったら、どんな反応するかな?」
蒼依の意地悪を思いついたような楽しい声に、考え事をしていた小和の意識は引き戻された。
「たぶん最初はシンプルに羨ましがるだろうね。自分も撮りたかったとか、一緒にいたかったのにって」
「めっちゃありそう」
「で、少し冷静になって背景見たら、撮った場所が大学だってことに気付いて驚くんじゃないかな。それで慌てて、“いまどこにいるの?”って、連絡してくるんじゃない?」
「そうなったらどうする?」
「蒼依はどうしたい?」
蒼依は雨が落ちる空を見上げながら、少しだけ考えているようだった。
「やっぱり会いたいかな。ワガママ言うとね、一分一秒でも颯太と一緒にいたいから。だって、私には――」
蒼依は続きの言葉を飲み込んだ。
それでも蒼依の事情を知っている人間からすれば、何が言いかけたのかは分かってしまう。それはきっと、
――時間がないから
その時間が意味するところは、梅雨の終わりまでの時間と蒼依に残された命の時間。
梅雨が終わり、紫陽花の花が終わるころに蒼依はきっとまた長い眠りにつく。もしかしたら次は起きることができないかもしれないという、不安と恐怖を感じながら。
だから蒼依は後悔しない選択をするようにしていて、自分の気持ちに真っ直ぐだ。
そんな蒼依だから、誰の目にもよりいっそう魅力的に映るのかもしれない。
小和はタブレットを取り出して、撮ったばかりの写真を取り込んだ。そのままタブレットでメッセージアプリを開いて、四人のグループに先ほど撮った蒼依の写真を何も言わずに送信した。
蒼依と一緒にタブレットで、颯太がどういう反応をするのか待った。
『この写真なに?』
『蒼依、めっちゃいい笑顔じゃん』
『てか、蒼依の写真撮ってるんならよんでよ』
『俺も撮りたかった』
颯太がメッセージを連投し、慌てていたり驚いている様子が目に浮かぶようだった。
その予想の範疇の反応に、小和と蒼依は顔を見合わせて楽しそうに笑い合った。
『もしかして、楠見さんたちいま大学来てる? これ図書館の近くだよね?』
行哉が冷静に指摘する。レンガ舗装の道は図書館の周りにしかないので、それに気づいたのだろう。
『本当だ』
『てか、行哉。横にいるんだから直接言ってくれよ』
『なら颯太もそれを直接言えよ』
そのやり取りに小和と蒼依は同時に噴き出して、笑い声をあげた。
蒼依のスマホが、颯太からの着信を告げる。
「どうしたの、颯太?」
「どうしたって……大学来てるなら言ってよ」
「ごめんね。驚いた?」
「うん、かなり。ねえ、蒼依。少しだけでも、会いに行っていい?」
蒼依はすぐに返事をしたい気持ちを我慢して、隣で会話を聞いていた小和に目を向けた。
小和は、蒼依の好きにしなよと言いたげな表情でため息混じりに頷いた。
「うん。私も会いたい」
「いま図書館の近くだよね? すぐ行く」
そういうと通話が切れた。
それから五分としないうちに、傘を差した颯太が小走りで図書館にやってきた。
蒼依はベンチから立ち上がって、颯太の傘に入り、恋人にしか許されない距離感で話し始めた。
小和はベンチに座ったまま幸せそうな二人の姿を見つめながら、胸の奥が軋むように痛んでいた。
思い出すのは一年前に、同じ傘の下で颯太と腕を組んで歩いた夜のことで。
雨で隔てられた颯太たちがいる場所は、今の小和には遠い世界だった――。




