ずっと聞きたかった知らせ
ゴールデンウィークが、もう遠くのことのように感じる五月半ば。
昼休み明けの三時間目の講義を受けていると、机の上に置いていた颯太のスマホが着信が来たことを静かに知らせていた。
マナーモードにしていて講義に集中していたので颯太は気付かずにいると、隣に座っていた行哉が颯太の肩を叩いた後、颯太のスマホを指差し、着信が来ていることを無言で伝えた。
颯太はスマホを手に取り、着信の相手を確認すると突然立ち上がり、スマホを手にして講義室を飛び出した。
着信が切れてしまわないようにと、颯太は廊下に出ながら着信に応じた。
「もしもし」
「お久しぶり、颯太くん。いま電話して大丈夫だったかしら?」
電話の向こうから、蒼依の母の景子の優しい声音が聞こえてきた。
それは蒼依と過ごした去年の梅雨に耳に馴染んでいた声で、電話とはいえ颯太が景子と話をするのは久しぶりのことだった。
最後に颯太が景子と話したのは、学祭の少し前のことだった。
蒼依と紫陽花の写真を写真部が学祭でする写真展で展示する許可をもらうためで、そのとき話の流れで近況を少し話したくらいだった。
蒼依の様子を知りたくとも、蒼依の入院のことを聞かされたあの日に見た景子の表情を颯太は忘れられず、用事もなしに連絡することをためらってしまっていた。
「はい、大丈夫です」
颯太の息は少しだけ乱れていて、電話に応答するまでの時間のラグを考えると、颯太が嘘を言っているか強がっていることはバレバレで。
電話の向こうから、そのことに気付いている景子が小さく笑う気配がした。
「颯太くん、アオが目を覚ましました――」
颯太はずっと聞きたかった知らせが届き、嬉しさのあまり言葉が出てこなかった。
「それでアオが会いたがっているのですが、どうしますか?」
「会いたいです。ずっとこの日が来るのを待っていたんですから」
「ええ、そうみたいね」
景子は深く相槌を打った。それは颯太の声から気持ちを察しただけではなく、目覚めたばかりの蒼依から約十ヶ月にわたって送り続けられてきた颯太たちの写真を見せてもらっていたからだった。
「それで蒼依にはいつ会えますか?」
「明日の午後以降で、都合がいい時間はありますか?」
「明日なら三時前には講義が終わるので、それ以降ならいつでも」
「分かりました。では、面会できるように病院にはこちらで手続きをしておきます」
「ありがとうございます。それで蒼依のお見舞いというか面会には、自分以外も行ってもいいですか?」
「それは小和さんと中原くんのことですよね? その二人でしたら大丈夫です」
それから景子は蒼依が入院している病院と、面会の際には病院の入り口まで迎えに行くことを颯太に伝えた。
「それじゃあ、明日病院に着いたら私に連絡をしてください」
「はい、分かりました。あの……蒼依のこと教えてくれて、ありがとうごいます」
「いいのよ。私はずっとあなたたちに謝りたいと思っていたの。去年、あなたたちに蒼依の入院を伝えたときに、厳しい態度で突き放すようなことを言ってしまってごめんなさい」
颯太は自分の誤解を恥ずかしくなった。
蒼依がいなければ、景子との間に溝があるものだと思い込んでいた。
しかし、夏の他大学との合同写真展や秋の学祭での写真展、春休み期間中の二月半ばに開かれた定例の写真展にも景子は来てくれていた。
お互いに歩み寄るきっかけを見失っていただけで、景子は颯太たちのことをずっと見ていてくれていた。
蒼依の立場になって考えてみたら、もし目が覚めたときに会いたいと思った人が、自分のことを待っていなかったら仕方ないと思いつつ、心は傷ついてしまうだろう。
だから本気で待つ気がないのなら、関わらないでほしいと願うのは、蒼依の心の平穏を思えば当然のことだった。
最初から溝なんてものはなく、颯太たちに厳しく当たったのも蒼依を守るためだということを今なら理解できた。それに思い返せば、あのときは蒼依が入院した直後で精神的に余裕がなくても仕方がない時期だったのかもしれない。
「謝らないでください。きっと誰も何も間違ってないと思うので」
「ありがとう、颯太くん。もっと早くにちゃんと話をしてればよかったわ」
「同じことを自分も思ってました」
電話の向こう側からホッと安堵の息を漏らしている気配が感じられた。颯太も無意識に同じように息を漏らしていた。
お互いが勝手に作っていた溝も不必要に感じていた緊張も、気付けばなくなっていた。
通話を終え、講義室の座っていた席に戻ってくると、
「おかえり、颯太。さっきの電話、綾崎さんのお母さん……だよな? すまん、画面見えた」
行哉が小声で申し訳なさそうな表情を浮かべながら声を掛けてきた。
「別にいいよ。スマホの画面見られて困るようなこと、あんまりないし。行哉と違ってな」
「俺と違うは余計だろ。それで電話してくるってことは何かあった?」
「まあな。この講義終わったら、そのことでちょっと話したいことあるんだけど」
「分かった」
行哉はそれ以上詮索することなく、マイクを通しても聞き取りずらい教授のぼそぼそと喋っている言葉に、今は耳を傾けることにした。
隣に座る颯太はどこか上の空で、ぼんやりと講義を受けていた。
講義が終わり、教科書やノートなどを鞄に収めている颯太に、
「それで電話はなんだったんだ?」
一足先に片付けを終えた行哉が、鞄を肩にかけて立ち上がりながら尋ねた。
「このあと小和さんと合流してからと思ったけど、まあいいか。蒼依が目を覚まして、会いたがってるって」
「本当に? よかったじゃん。ずっとこの日を待ってたんだろ」
行哉は笑顔を浮かべながら、テンションが上がったのか颯太の肩をバシバシと叩いた。
颯太は片付けを終えると、スマホでメッセージを確認する。小和にも話したいことがあるから、講義終わりに会えないかとメッセージを送っていた。
小和からは、講義が終わるまで待ってると返事が届いていた。
「それで行哉は明日の三時間目の後は、俺と同じで講義なかったよな? 何か予定入ってる?」
「明日? 講義は颯太が言う通り三時間目までだし、バイトの予定とかもないよ」
「小和さんは聞いてみないと分からないけど、明日みんなで蒼依の面会に行かない? 蒼依のお母さんにはもう許可はもらってるんだよ」
「分かった。そういうことなら俺も行くよ」
それから颯太たちが講義を受けていた棟にある自動販売機の設置されているロビーで、小和と合流し、蒼依のことを伝えた。
「もちろん私も行くよ」
「よかった。じゃあ、明日三人で面会に行けるって伝えるよ」
そのまま三人でお見舞いに何を持っていくか話し合い、明日の待ち合わせをどうするか決めた。
*
翌日。
朝から雨が降ったりやんだりと落ち着かない天気の昼下がり。
颯太と小和、行哉の三人は、蒼依が入院している病院にやってきていた。
エントランス付近で連絡していた蒼依の母の景子に迎えられた。病院の受付で、颯太たちは面会者受付表を記入し、面会証を受け取った。
そして颯太たちが景子に連れていかれたのは、脳神経外科の病棟だった。
蒼依はエレベーターホールまで迎えに来てくれていて、元気な笑顔で三人を迎えてくれた。長く眠っていたとは思えないほどの、顔色の良さや健康そうな姿に三人は胸を撫でおろした。
話は蒼依の病室ですることにし、あらためてベッドに腰かける蒼依とその隣に立つ景子、二人と向き合うように部屋の中にあった椅子に颯太と小和が腰かけ、行哉は椅子が足りなかったので立ったまま話を聞くことにした。
「あらためて、今日は来てくれてありがとう。眠ってる間にみんなが送ってくれた写真見たよ。全部保存して、昨日から何回も見てる。颯太はほぼ毎日送ってくれてたし、家族以外の誰かに待ってもらえてたんだって思えて、本当に嬉しかった」
蒼依は満面の笑みを浮かべながらも目は少しだけ潤んでいた。
「それでね、そんな三人だから打ち明けたいことがあるの」
蒼依はそう言うと大きく息を一つ吐いた。同時に、颯太たち三人には緊張から表情を固くした。
「信じられないかもしれないけれど、私は人でありながら植物のような存在なの。見えない何かで家の庭にある紫陽花と繋がっていて、命を共有しているのよ」
蒼依が何を言っているのか、颯太たちはまるで理解できなかった。
「私は紫陽花の花が咲く梅雨にしか活動ができないの。そういう奇病なんだって思ってくれたらいいよ」
沈黙が下りた病室の窓を、雨が静かに叩き始めた――。




