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「はは……、脚が軽い気がする」
浮足立っているのか、香奈さんとしゃべったら疲労が吹っ飛んだ。きっとアドレナリンか、セロトニンが脳内でドバドバ出て、疲れを感じにくくなっているのだろう。
薄暗い男子更衣室を出ると、柔道場の明かりに目が一瞬くらむ。外が暗くなってきたからより一層明るく見えるようになったのかも。
蒼真先生のもとに駆け足で移動。
「何かあったのか?」
蒼真先生は僕の顔を見下ろしながら眉を顰める。
「いえ、別に。最後まで全力で練習しましょう」
「当然だ」
枠用の緑色の畳から、柔らかい黄色の畳の上に足を踏み入れる。
「この一回で、今日は最後だ。最後の最後まで絞り出せっ」
西山先生が疲れを感じさせない大声を発すると、部員全員が「はいっ!」と叫び声をあげる。
個人競技なのに、練習は団体競技のよう。周りが努力していると、こちらも努力しなければと思うし、周りがサボっていたら自分もサボりたくなってしまう。皆、動きはぎくしゃくしているが、表情は死んでいなかった。
色褪せた黒帯を引き絞り、頬を強めに何度も叩く。
蒼真先生は畳を壊すんじゃないかと思う勢いで跳ね、床を大きく震わせる。インターバルの文字がゼロになると、大きな音が鳴り、三分間の表記に代わる。
「「「「「しゃああああああ。ファイットぉお˝」」」」」
部員たちがそれぞれ声を出し、最後の最後に気を抜かないよう心がける。
僕も「お願いします」と言った後に、周りにつられて叫んでいた。この感覚は、嫌いじゃない。むしろ部活をやっていて楽しいと思えるところだ。
僕の疲労は減った。同じく、蒼真先生も回復している。互いに袖をつかみに行こうとするが、掴んでは切って、切っては掴んでの繰り返し。
ここまで、蒼真先生が左組を使ったのは数回。左組も使えるけど、右組のほうが得意なのだろう。だからといって、油断はできない。
掴まれる前に右組の形になりたかった。
蒼真先生は柔道着を掴んだ瞬間に引っ張り、タイミングを計る癖のようなものがある。加えて練習中だから、周りの人に当たらないよう、投げようとする方向に人がいないか一度確認もする。
その動作がなければ、大外刈りなどの前に投げる技を放ってくるだろう。逆に視線を左右、または背後に向けたら、内またや体落とし、大腰などを狙っている。
僕は奥襟だけは持たれないよう頭を上げ、腰を低く保ち、小内刈り、足払いを数回放つ。蒼真先生の視線が左側に向いた。
大外刈りはない。僕の前に出た足を一度払うと、一気に引手に力が入って前に引き出される。釣り手が抜けないよう胸に押しあてられ、肘は九十度。
――内股だ。
とっさに判断した僕は蒼真先生の右足が内ももをこすってくる感覚を得ながらも身をさらに前に無理やり持っていき、脚を高く上げて透かす。柔軟していなかったら、脚が開かずに持ってかれていた。
大きな隙ができた。もう、瞬きもする余裕はない。今、〇.五秒の間に、技に入りたい。
僕は右脚一本、蒼真先生は左脚一本で立っている。隙ができたからといって、状況は最悪だ。僕の体勢は前に崩れているし、彼に前に引っ張り出されている。このまま、ぼさっとしていたら、残った一本の脚を刈り取るように体落としを繰り出してくるだろう。
僕も攻撃を放ちたかったが、〇.五秒以内に放てない。確実に防がれる。
なら、背負い投げか。だめだ、足の位置が悪すぎて、腰が回り切らない。そうなるとタイ落としも無理。
じゃあ、袖釣り込み腰……。だめだ、だめだ。蒼真先生の釣り手が邪魔で腕を上げられない。
小手先の技を放っても、こけさせるくらいが限界だ。それじゃあ、投げたことにならない。
――諦めるな、諦めるなっ。この一瞬でダメなら、一秒先、二秒先を考えろ。僕の一番得意な技は背負い投げだ。なら、そこに繋げるように動け。
僕は投げられている方向と真逆に体をひねり、釣り込み足という前に出た足を引っかける小技を使うと見せかける。
すると、蒼真先生は踏ん張ってくれた。重心が後ろ側に向かう。
その瞬間を見越して、右袖を思いっきり下に絞って襟から外させる。袖釣り込み腰のモーションに入った。
「くっ、まだっ!」
右手を上に持っていかれたくない蒼真先生は脇を占めるように引く。それと同時、重心も大きくぶれている。
――ここだっ!
まだ、腰を回していなかった僕はすぐさま、蒼真先生の重心が向いている方向に右足を置く。右袖を力いっぱい引っ張って、襟を巻き込むように右手首を絞り、彼より腰を落とした。
ここまで完璧。ただ、蒼真先生も大人の維持なのか、一瞬粘られる。ここで僕が力を抜いていたら耐えられただろう。
もしこれが試合だったら、力を抜いていたかもしれない。でも、今、この瞬間、ここぞというときに、力を抜いていられるか。
「よいっしょおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
あと一歩、香奈さんが大声で引っ張ってくれた。その声が聞こえるだけで僕の腹に力が入る。
「おっらあああああああああああああああああああっ!」
引手、釣り手、体の連動、最後の気合、すべてが完璧に重なり合った瞬間、蒼真先生の背中が畳に当たる。
タイマーを見ていなかったけれど、ちょうど三分間が過ぎ、二回目の乱取りがすべて終了。
ほとんどブザービーターのような状態だった。
今までまともに息を吸っていなかったようで、肺が苦しい。大きく息を吸う。
両手が痺れた。畳を叩いて痛いのではなく、相手の柔道着を握りしめすぎたせいだ。
僕たちは服装を正し、面と向かって礼して「ありがとうございました」と感謝する。
「最後は、完全に俺の負けだった。どうやら、神村は思っていたよりもダメ男じゃなかったみたいだ」
蒼真先生に初めて笑いかけられた。汗だくで、水も滴るいい男状態。イケメンすぎて、男の僕も一瞬ドキリとしてしまう。ただ、普段は思わないのに、その笑った顔が香奈さんにどことなく似ていた。
「あ、あの、ずっと気になっていたんですけど……、蒼真先生は香奈さんの彼氏なんですか?」
「は?」




