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僕はいつの間にか、蒼真先生に投げられないようにしまいと、腕を突っ張り腰を引いたような体勢で戦っていたからか、猫背気味になっていたらしい。腰を引いて、頭を下げているお辞儀のような体勢は最悪だ。技にも入りにくい、相手の技が見えにくい、崩れやすい、など何も良いことがない。
帯を締め終えるが、胸を張って背筋を正す気力はとうになかった。こんな情けない姿をすでに香奈さんにさらしている。
蒼真先生に認めてもらうことも、今の僕では難しそうだ。なんなら、今でなくとも、今後一切認めてもらえないかもしれない。
そうなれば、香奈さんとの関係もこのまま、何も変わらないのか。それでいいのか。蒼真先生と香奈さんはお似合いだから、僕は潔く手を引くのが楽な選択だ。本当にそれでいいのか。
もう、二度と香奈さんと楽しくおしゃべりできず、デートもできず、一度のキスで満足するのか。辛そうにしていても遠くで眺めているだけか……。
嫌だ。
もっと彼女としゃべりたい。いろんな場所に行きたい。何度でもキスしたい。辛いなら、一番近くで彼女を支えてあげたい。
告白したとき、香奈さんに『ありがとう。それで、なに?』と言われて、何も言えなかったけれど今なら、たくさん答えられる。なんなら、たくさんありすぎて逆に言葉に詰まりそうだ。
やはり僕は、あきらめが悪い性格らしい。
帯をぎゅっと締めると、やはり気が引き締まる。お腹に力が入り、呼吸も整えられた。
負けっぱなしはやっぱり悔しい。一度でもいいから、勝ちたい。
――ただ、無理やりせめて投げられるだけじゃもったいない。タイミング、速度、癖、何でもいい、情報を集めるんだ。無鉄砲に攻めてもやられるなら、計画的に攻める。
僕は無計画な連撃から、小技やフェイントを混ぜ込んでみた。当たり前のように対処される。それでも下は見ず、相手を見る。足ばかり見ていると、頭が下がるからだ。
乱取り中、何気に初めて蒼真先生の顔をちゃんと見た気がする。いつも襟や袖、足、ばかり見ていた。顔を見始めてから極端に投げられる回数が減った。頭が上がったかから崩されにくくなったのかもしれない。それもあるが、無駄に攻めなくなって隙を突かれにくくなった。
体落とし、小内がり、足払い、など少しずつ織り交ぜ、ただ踏ん張っているだけでは対処できないようにする。対処できないということは、それだけ隙が生まれやすくなるということ。
がっちりと組みあってしまったら投げられる。だから、蒼真先生が僕の小技で体勢を崩し、立て直そうとする瞬間を狙ってみる。
本気で背負い投げに入ると見せかけ、後ろに体重がかかったところに小内狩り。耐えられた。さらに背負い投げのモーションで袖釣り込み腰。
「おっらああああああああっ!」
「くっ……」
フェイントが効いたようで蒼真先生の体が一瞬浮いた。ただ、投げ切る前に下半身が崩れており、僕もつぶれる。でも、初めて持ち上げられた。
――投げたすぎて焦りすぎた。もっと深く、的確に入らないとダメだった。
気持ちが体より先行してしまい、タイミングが合わない。どれだけ早く動こうと思っていても、体は二時間近く部活して疲労困憊だ。
蒼真先生なら僕の攻撃に〇.五秒あれば対処できてしまう。それより早く技を完璧に掛ける必要があるのに、脚がもう……。
――諦めたらだめだ。蒼真先生だって人間なんだから疲労がたまるに決まっている。疲れているのは僕だけじゃない。
相手を動かしながら重心の移動を感じ取り、自分の体を完璧に制御して技をかければ確実に投げられる。理想論だけれど、それが出来なければたいてい投げられない。
周りにも他の生徒がいるはずなのに視界に入らなかった。他の者の掛け声も、耳に届かなかった。ただ目の前にいる蒼真先生にだけ集中し、組みあう。
筋肉で動かそうと思ったらだめだ。動きの中で圧力をかけ、攻撃するタイミングを計らせないように足元は見ない。でも、少し気を抜けば強烈な投げ技を放たれる。
大外刈り、内また、大腰……、など、堪えようと思っても堪えられない。それは僕の重心が傾いていて、その都度、完璧に技がかけられているから。
もう、そこまでされていたら抗いようがなく、投げられるだけ。ほんと、気持ちがいいくらいすっぱーん! っと。
タイマーではなく蒼真先生に集中していたからか、いつの間にか八回目が終わっていた。今日は残り二回しかない。さっきはあと七回もあるのかと思っていたのに、人間の感覚は不思議だ。
「次は休憩する」
「は、はい……」
二回あると思っていたら、一回になってしまった。
――いや、これは一種のチャンスだ。蒼真先生も休みたくなるほど疲れている。この回はしっかりと休んで、最後の一回にすべてを出し切る。相手の技や動きはたくさん見た。勝つ、絶対に勝つ。
木製の引き戸で閉じられていた男子更衣室に入る。薄暗く、どこか落ち着かない。自分の水筒を掴み、大きくあおって水を飲む。ただの水が、尋常ではないくらい美味い……。
九回目が終わる前に服装を完璧に整え終えると、誰かが更衣室に入ってきた。
振り返ったら、そこにいたのは今にも泣きだしそうになっている香奈さんだった。ここは男子更衣室なのだけれど。まあ、今はだれも着替えていないから別にいいか。
「神村くん、無茶しすぎ……、あんなに何回も何回も、畳に強く叩きつけられて……」
「これでも、投げ慣れられているから大丈夫だよ」
僕が笑いかけると、香奈さんは僕の汗まみれの襟をつかみ、ものすごい力で引っ張った。僕の体力がなかったから、彼女の力でも簡単に動いてしまった。
薄暗いせいで距離感がわからなかったのか、それとも慣れていなかったのか、唇に何かが触れたかと思ったら前歯同士が軽くぶつかり、カチっと小さく音が鳴った。
「ちょ、か、香奈さん、いきなりどうして……」
「げ、元気を出してもらおうと思って……」
薄暗い更衣室の中でも、彼女の顔の赤さはよくわかった。
まだ、ちゃんと仲直りできていないし、彼女と蒼真先生の関係もよくわからない状況だ。どうして彼女が僕を元気づけようとして、……キスしてくれたのかも全然わからない。
だけれど、僕をおちょくるためにキスしてきたとは思えない。素直に彼女の言葉通りの意味で受け取ろう。
「ありがとう、香奈さん。びっくりするくらい、元気が出た」
目の前にいる大好きな人を抱きしめる。ただ、今、汗でびちゃびちゃだったと思い出す。
すぐに離れると、なぜか彼女の表情がふくれっ面に……。汗まみれの状態で抱き着いたから怒っているのかもしれない。もう、時間もないので長い間しゃべっていられなかった。




