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完全に攻撃主体の戦い方だ。体重や体格が違うため、守っても勝てない。なら、少し休憩し体力が続くようになった今、勝てる可能性が一番高い。
あいにく、蒼真先生は西山先生よりも軽い。なら、西山先生を投げられた僕なら、絶対に投げられる。勝てる可能性はゼロじゃない。
僕は早々に蒼真先生の右袖と左襟を固く握りしめた。背負い投げしようと、足を踏み出す。腰をひねろうとした。
でも、透かされた。いつの間にか僕が畳に背中を付けている。腰をひねるタイミングで重心が後ろに下がった瞬間、その方向に力を加えられながら足を引っかけられ、吹っ飛ばされたと推測する。流れを完璧に読まれていたのが原因だ。僕も後ろに投げられると警戒していればもっと別の動きが取れたはず……。
まだ、一分しかたっていない。自分から攻めていると、時間の流れがあまりに遅く感じる。
適当に普通に生活しているときの一分と、乱取り中の一分は同じなのだろうか。
まだ、一回投げられただけだ。あと二九分ある。一回でも投げられれば、三〇敗一勝でも、勝ちをもぎ取ることが大切なんだ。
僕はすぐに立ち上がる。一度会釈してから、練習再開。蒼真先生の顔は変化がなく、じっと集中しているように見える。一度投げたからと気楽にならず、もう一本、もう一本と愚直に前を見据えていた。
相手は二十歳を超えている新人教師。二十代前半は男の全盛期といってもいいほど仕上がっている。対する僕はまだまだ、成長期真っ盛り。だからなんだ。相手がどれだけ強かろうと、関係ない。
相手が誰だろうと、格上だろうと。僕は、僕の力で目の前の人を投げてみせる。
そして香奈さんに、もう一度ちゃんと伝えるんだ。
頬をもう一度叩き、甲高い大声を出して気合いを引き締める。出来る限り、畳に両足の裏はくっ付けておいた方がいい。小指よりも、親指に力を入れて常に中腰気味をキープ。その状態で、ボクサーのジャブのように手を素早く動かす。
僕が右袖を掴んだとたん、蒼真先生は僕の左袖を掴んだ。さっきと違う組手……。そのまま、右襟を取られたと思った瞬間、体が宙に浮いている。
――ひ、左組の体落とし。でも、さっきは右組で投げられた。まさか、両利きなのか……。
一般なら、右組か左組、どちらか得意な方で技を掛けられるように練習する。でも、どちらも使えれば、相手が苦手な方を選択できる。加えて、攻撃のバリエーションがおよそ二倍以上に増える。
こっちからすれば、どちらで攻撃してくるのか、選択が二倍に増えるわけだから、攻撃されてから防ぐのはもう力と運に頼るほかない。
でも、僕は力がないからうまいこと崩されて技を掛けられたら、簡単に飛んでしまう。
カブトムシくらい足腰ががっしりとしていて、力が強ければ……。
「どうした。もう、降参か?」
あまりの衝撃に立ち上がれないでいると、蒼真先生は何事もなさそうに立っていた。クールな雰囲気がこの場の熱気と相反しており、異質に見えた。
「まだまだ、ですっ」
僕はすぐに立ち上がり、彼の前に立つ。
――両利きでも、多少の得意不得意があるはずだ。右組で攻めて、蒼真先生が嫌がって組手を変えた瞬間を狙う。
僕はとにかく自分が三年間練習してきた組手を貫くしかなかった。こっちから崩すのは難しい。だから、ほんの一瞬の隙も見逃せない。
攻め続けて相手が防御に徹し、こっちの隙をついて攻撃してくる瞬間や、少しでも気の抜けた隙、足を滑らせそうになった時など、どんな些細な隙でもそこに攻撃をねじ込んでいく必要がある。
ただ……、集中力が同じ人間なのか疑わしいほど高い蒼真先生は気を抜いた素振りを一切見せない。こんなにキツイ練習を繰り返しているのに、どうしてそこまで冷静でいられるのか、わからない。
本当に西山先生よりたちが悪いよ。
蒼真先生の方が腕や脚が長かった。僕の腕の長さだとこっちが柔道着を掴むより先に彼の方が掴めてしまう。いつも攻撃が後手に回って、無理やり入った攻撃をすかされたり、返されたり、容赦なくぼっこぼこにされた。
投げられ過ぎて畳に何度も叩きつけられるから、脚や背中、腕がじんじんと痺れた。
手のひらは畳を叩きすぎて、真っ赤に腫れているように見える。僕は投げられ慣れているから、見た目以上に辛くはない。ただ、いかんせん、握力の低下が著しい。
蒼真先生の柔道着を掴んでも、握力がなくなってきているせいですぐに切られてしまう。
攻めていると呼吸がまともに出来ない。今すぐ手を放してしまいたい。そのまま膝に手をついて背中を丸めてしまいたい。
タイマーを一瞬だけ見ると、まだ三回目。蒼真先生と乱取りを始めてから一〇分もたっていない。嘘だ、ありえない……。もう、何十時間も戦っているんじゃないのか。
残り、二〇分あるけれどその間、ずっと本気で戦っていたら僕は本当に死ぬのではなかろうか。少し力を抜いて戦わないと、最後まで持たない。ここで体力を温存して、後半でどうにか。
僕の頭は、逃げ道ばかり考えていた。どうやら人間は極限の状態に立たされると、その場から逃げたくなるらしい。逃げたくないと思っても、死ぬかもしれないなら逃げてもいいのでは……と思い始めてくる。
「服装を正せ」
蒼真先生が手を放し、指摘した。帯がほどけかかり、上着がはだけている。
「は、はい」
柔道着を直す時間は、試合でも起こりえる。その時間を使えば呼吸を整えられる。無駄にたらたらと直してはいけないが、ゆっくり丁寧にこなせば問題ない。
――自分に負けるな……。蒼真先生に負けるならいい。でも、自分にだけは負けたらだめだ。
香奈さんのほうは見られなかった。もう、蒼真先生にぼっこぼっこにされているのを大好きな人に見られて、ふがいなさで顔があげられない。正直、男としてのプライドは中学時代の柔道着と同じくズタボロだ。
それなのに、僕はなんでまだ立って戦えているんだろうか。こんなに苦しい想いしないといけないのか。楽な道に進んだらだめなのか。やっぱり、高校の部活は中学よりもずっと苦しい。
楽しかった部活に戻りたい。僕の知っている柔道はこんなに苦しくなかった……。
でも、そんなこと、周りを見ていたから、わかり切ったことだろ。苦しいとわかっていて、ここに来たんだ。今更、泣き言なんてダサいにもほどがある。
「下を向くな、常に顔を上げていろ。お前は相手に弱点を晒し続けるつもりか」
蒼真先生が凍てつく視線を向けてくる。彼はすでに身なりを整え終えていた。
柔道で下を向くと、奥襟が取られやすくなる。重心も崩れやすくなるため、頭は常に上げておくのが常識だ。




