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「あの時はたまたま、相手がみんな警察学校の初心者で、運が良くて……」
「大会中、相手が白帯の時も負けていただろう」
「その時は、極度の緊張でお腹を壊していたので、思ったように動けなくて……」
喋れば喋るほど、僕の視線は床に向く。どうにも、蒼真先生が喋るたび、僕の印象が悪くなっているように思えた。今は沈黙が金だったのかもしれない。
「全て昔のことだ。今更どうでもいい。じゃあ最後に訊く。中学のころは道着がボロボロになるまで使い倒していた男が、なぜ高校で柔道をやらないんだ」
おそらく、蒼真先生はその答えが聞きたかったのだろう。でも、中学で頑張ったなら、高校で同じ部活に入る必要はないじゃないか。違う部活に入って青春を謳歌するのも一種の選択のはず。勉強に集中したい生徒だっている。なら、僕が柔道部に入らなくても不思議じゃない。
「中学の大会で一勝も出来ず、それで柔道はやり切ったと言えるのか?」
口の中が乾き、声が出しにくくなった。確かに、一度も勝てなかった。柔道はやり切ったのかといわれても、知らない。
僕は黙ったまま唇を結ぶ。
「なにか、別の部活に入りたいと思っているのか?」
入学から一ヶ月経っても、結局どの部活にも入っていない。ピンとくる部活もなく、打算で柔道部を選ぶのも違うと思って教室に残り勉強している。でも、そのうち何かやりたい部活が出てくるかもしれない。そんな焦って決めることなのか。今、いろいろ忙しいんだよ。
僕は黙ったまま、親指を包むように力強く握りこぶしを作る。
「いきたい大学でもあるのか?」
高校一年生から行きたい大学が決まっている生徒の方が珍しいでしょ。勉強していて悪いことなど一つもない。成績が上がって、いい大学に行ける可能性が上がって、大企業に入って出世したりして……。
親子三代、何なら父親の弟二人も大工だから、大工家系の僕がエリートサラリーマンになっている想像など一切できないけれど、勉強ができれば夢ではない。
僕は黙ったまま、頭を横に振るう。
放課後なので、当たり前のように部活が行われる。バドミントン部がネットを張り始め、バスケ部は軽くダッシュ、剣道部は素振りをこなす。
一人一人が、なにを思って部活をこなしているのかわからない。でも、やるからには少なからず理由があるはずだ。逆に、やらない理由もあるはずだ。
「以前、西山先生に柔道部は他の部活よりだいぶ厳しくて、途中で退部するくらいなら、最初から入らない方がいいと言われて……」
「それは西山先生が言ったことだろ。お前がやらない理由じゃないよな」
傷を抉るような鋭い言葉に胸が裂かれ、注射針を腕に何度も刺されるような痛みに晒される。
「僕は弱いから、部活に耐えられないと思って……。どうせ、続けても試合で勝てないのに、柔道する理由もわからないし。なら、やる必要もない」
「はぁ……、それは本気で言っているのか?」
最後の質問だと言っていたのに、蒼真先生にまた質問で返され、僕は口をつぐむ。
「もう、部活の時間だな……」
蒼真先生は左手に付けられたスマートウォッチに視線を移した。僕の横を通り、歩いていく。
「あぁ、香奈。言っておくがこの男は駄目だ。俺は認めない。もっとましな奴にしろ」
捨て台詞を吐き、彼は新体育館を出て左に曲がる。そのまま柔道場に向かったのだろう。
どうやら僕はダメ男認定されてしまったらしい。わからなくもない。しどろもどろだし、相手の目も見られていないし、言い訳ばかり……。自分が嫌になる。
「香奈さん、ごめん」
「なんで謝るの? 蒼真先生の話は気にしなければいいよ」
「いや……、そのいろいろと」
戦う前に逃げ出すような弱い男に好きになられたら迷惑だろうな。
僕は香奈さんの顔が見られないまま、新体育館を出て教室に戻る。せっかく二人切りになれたのだから、いろいろと話せばよかったのに。ただ、そんな気分じゃなかった。
――はは、気分で女の子への態度が変わるなんて、最低な男だな。
教室に戻ったら椅子に座り、開いていたノートの上に乗ったシャープペンシルを握る。
ボーっとしていたら「そこ、間違ってる」と聞き覚えのある声が。
嵐山さんの席に香奈さんが座っていた。いつの間に教室に入ってきたのかわからないほど静かで、忍者のようだ。
彼女に指摘された場所を解き直して、新しい答えを書いた。
「ねえ、優くんは私のこと嫌いなの?」
「い、いやっ。そんな訳ないでしょ!」
音量調節ができない壊れた機械のようにいきなり大音量の声が出た。彼女を嫌いになる要素がどこにあるのか。嫌いな所を見つける方が難しい。
「じゃあ、私のこと好きなの?」
「それは……、その……」
僕は香奈さんの質問に答えられなかった。
「なるほどね。優くんが好きなのは星野香奈の方で、私じゃないってことかー」
香奈さんは椅子の後ろ脚二本で体を支え、背中を反らせる。後頭部で手を組み、何とも言えない表情。タバコを吸っている人がする、無垢の顔だ。何か、物思いに深けているのだろう。
「えっと……あの時は、私もちょっとやりすぎたかもって思っていて。ほんと、あんまり深い意味はなかったんだ。だからさ」
その声が、少し震えた。好きなお菓子を無理やり我慢するダイエット中の女の子みたいな顔で口を開く。
「……前みたいに、仲良くしようよ」
今にも泣き出しそうな目で、でも、笑った。
女心はわからない。今、彼女が何を考え、思っているのか、まったくわからない。
香奈さんの気持ちはわかりづらい。ずっと隠して生きてきたから素直に伝えられないのではないかと思うほど。
あの時のキスも流れに乗せられてしまったらしい。深い意味もないそうだ。やっぱりキスなど、昔から蒼真先生と何度もやり慣れていたに違いない。
キスに意味がなくなるくらい自然になってしまっているんだ……。
僕は小さく頷く。香奈さんの友達に戻れるように努力しようと思う。
「一つ聞きたいんだけど、香奈さんと蒼真先生ってどういう関係なの……」
「私の身も心も知っている人? 幼馴染みたいな関係?」
香奈さんは大して深く考えていなさそうだった。昔からの知り合いなのは間違いなさそうだ。




