34
公式を教えたら、問題を解く練習は各自でこなすようにと言った投げやり授業。
いや、先生を責めるわけにもいかない。先生は先生で、カリキュラムに沿った速度で教鞭を振るわなければならないのだ。
実際、練習させるより、解き方を教えた方が時短になる。でも、本当に必要なのは覚えた公式を使って問題を解く練習をこなすことだ。それを忙しい高校生に任せた結果、半分近くの生徒が置いてけぼりになる。
塾で授業前からやっていた者、部活せずに勉強に集中している者、勉強が得意な生徒以外は、高すぎるハードルにつまずいで転ぶ。
僕が教科書に乗った問題を軽く説いていると、背後から背中を突かれる。何かしら弄ってくるのかと思ったが、そうでもないっぽい。
嵐山さんと同じように意気消沈しかけている楽間さんが震える手で問一の一を指さす。
「わ、わかんにゃい……」
初っ端の問題に出ばなをくじかれたのか、もう、立ち上がれないほど気分が落ち込んでいる。問題は単純な計算だけれど、数学は解き方がわからなければ詰む。二章ほど前の公式を引っ張り出して当てはめれば解けるが、毎度、公式を教科書の中から探していたら間に合わない。でも、そうするしか頭に入らない。
「大丈夫、公式に当てはめれば簡単に解けるから」
僕は楽間さんのノートに問題で使う公式を全部書いた。これで、多少の時間になるし、僕の脳にも定着するはずだ。
ある程度問題を解く時間がもうけられている。その間、僕は嵐山さんと楽間さんの家庭教師になった気分で解き方を教えた。
右斜め後ろの方に、机にシャーペンの頭を叩きつけてコツコツと音を鳴らしている人がいる。そっと視線を向けると、香奈さんだった。こちらを見ている。何か言いたそうな空気が全身からジワジワと滲み出て、天井に沁みを作ってしまいそうだった。
その仕草や目線が気になって、英語の文法や数学の公式が、頭からちょっとだけこぼれていきそうだった。
四限目の体育の時間。体力テストのカリキュラムが終わり、男女別れて授業をこなすようになった。男子は以前から言われていた柔道の授業が開始される。
初心者が大半の中、僕はどういう心境で授業を受ければいいのだろうか。
一学期の後半に授業で習った者同士で柔道大会も開かれる。現役柔道部はもちろん参加できない。ただ、僕はもう柔道部じゃない。経験者と未経験者の差は大きい。それで勝っても何も嬉しくない……。
体操服のまま、僕は柔道場に足を運ぶ。
新体育館近くに立てられた柔道場。体育館倉庫を改造して畳を敷いたなんちゃって柔道場で練習していた中学のころと比べたら、柔道専用の建物があるだけで凄いと思ってしまう。
入口で神棚に一礼した。不意に柔道部だった癖が出た。
「うわ、くっせぇー、くっせぇー、汗のにおいがすげーぜ」
「はぁ、めんどくさ。誰がやりたくて、体育で柔道すんだよ……」
「あぁー、俺も女子とダンスがよかったなー。小日向さんがダンスする姿を拝みたかったぜ」
男子たちは柔道場に入るや否や、小言を吐いた。まあ、わからなくもない。畳や壁、天井、どれも新しく、綺麗だけれどタバコのやにのように汗のにおいが至る所にこべりつき、換気してもほのかにかおる。耐性がない人からしたら、臭い。僕も久しぶりに嗅いだら臭いと思った。でも、運動部って臭いもんでしょ。良いにおいのする運動部って何? 努力の証でしょと、思いながらも口にしない。
柔道部顧問の西山先生ががっつり柔道着を身に着けて壁側による。
僕たちはいつも通り整列した。
「今日から、柔道の授業が始まる。気を抜き、適当にやっていたら首の骨を折って死ぬぞ」
ヘラヘラしていた者たちは、西山先生の鬼のような圧に気おされて冷や汗をかいているように見えた。きっと、これでも怖さは半分程度。
部活の時間になれば、本領を発揮し、生徒たちをバッタバッタとなぎ倒す化け物に変わるのだろう。
準備体操をこなした後、前転、開脚前転、後転、開脚後転、側転など、動きと柔軟を同時にこなす。一種のマット運動のような時間を過ごす。
「神村、やっぱり柔らかいな」
西山先生が目を細めて見てくる。なんだろう、褒められてるのか、品定めされているのか。その後、後ろから男子たちのささやき声が飛んできた。
「うわ、脚めっちゃ綺麗……」
「つか、尻、色っぽすぎない? 神村くん……」
「女子いないと、神村がめちゃくちゃ輝いて見える現象、ヤバいだろ……」
女の子扱いされて、否応にも頬が熱くなる。本当に、やめてほしい。僕は男だ。っていうか、女の子の方が、絶対もっと可愛い。
「なあ……あれ、本当についているんか? 一種の詐欺だろ……」
――いや、ついてますけど。変に、そっちの方向に妄想を爆走させないでほしい。
そんな空気の中、今日の実技は受け身だった。寝返りのように左右の畳を叩いたり、中腰から後ろに転がって後頭部を守る練習をしたり。
久々にやると、普段履いていない靴に足を通した気分になる。それでも、畳を叩くとバシィッと乾いた音が響いた。中学の頃は、毎日この音を聞いていた。手の平に残るピリピリとした痛みが懐かしい。でも、あの頃とは違う。今の僕は、もう柔道部員じゃないのだ。
体育の時間が終われば、教室に戻って着替える。いつもなら、購買に行って香奈さんとの勝負の結果報酬を支払っていた。でも、授業中、勝負できなくなり、久しぶりに財布のひもが緩まなかった。
もう、香奈さんが自分のお金で買っていない至高の品を食べて、良い笑顔を浮かべているのを見られないと思うと、ちょっと残念だ。
男子たちはにおいを気にしているのか、制汗シートで体を拭き、様々なにおいを纏いだす。
弁当を手に持ち、香奈さんの席に視線を向けるが、そこに彼女はまだいなかった。
「あぁ~、疲れたー」
「まさか、歩があんなにダンスができたとは思わなかった」
「ま、子供のころはアイドルの振り付けを一生懸命覚えてたくらいだからね」
カッターシャツとスカート姿に、体操服鞄を持った嵐山さんと楽間さんが教室に戻ってくる。互いに汗を軽くにじませており健康的に見えた。
「にしても、蒼真先生、やっぱりかっこいいよね~」
「まあ、イケメンの部類だわな。クールでダークな所が、なんか擽られる。ガタイがいいのも、女心をくすぐられるよな……、ひひっ」
「そんでもって、香奈ちゃんと仲良さげで、めっちゃいちゃついているように見えた」
「前々から、知り合いだったっぽいよな。ワンチャン、出来てんじゃね?」
二人の会話を聞いていると、体がソワソワする。いてもたってもいられず、弁当を机に置いて、立ち上がった。香奈さんにこの前のことを聞こう。なんなら、この後、お昼を一緒に食べようと言おう。




