9 つかの間
――久しぶりにぐっすり眠れた。
昨夜は夢も見ずに、夜中に目を覚ますこともなく、詩歩の目覚めは爽快だった。
今日は美咲と例のカフェに行ってみてもいいかもしれない。そんなことを考える余裕すら生まれていた。
そうだ、昨日の朝の記憶だって、子供のころに見たものだったのかもしれない。
「お母さん、うちに黄色い花柄のティーカップってある?」
ガチャン、と甲高い音がして母の手から食器が滑り落ちた。詩歩はシンクを覗き込む。
「大丈夫?」
「ええ、割れてないわ」
母は冷蔵庫に向かいながら、早口で喋り出した。
「今日からお父さん、出張なんですって。最近、多いわよね~。夕飯は外食にしちゃおうか。そうだ、卵はどうする? オムレツにしてチーズを入れるのもいいわね」
母の態度を怪訝に思いながら、それきりティーカップの話題は流れていった。
昼は美咲が話していたカフェに行った。
「え、別れたの?」
「もう結構前だけどね」
「そうなんだ~大変だったね」
彼氏と別れたことで、最近の詩歩の様子がおかしかったと、美咲は勘違いしている。だが、詩歩はその勘違いをそのままにしておいた。
カフェからの帰り道、携帯ショップに立つ、見覚えのあるスーツ姿を認めた詩歩は思わず立ち止まった。
「美咲、私、ここに寄っていくから。じゃあまたね」
美咲の「機種変えるの?」の問いは、すでに店内へと足を踏み入れた詩歩には届かなかった。
「田中さん」
「あれ、詩歩ち――」
田中が呑み込んだ残りの言葉に、詩歩の眉根がまた皺寄ったが、口元は笑っていた。
「何してるの?」
「スマホの電源が入らなくなってさ~ここで直してもらったよ」
「ふう~ん。連絡先、交換する?」
何度も会っているのに、名前すら最近知ったばかりだ。当然、お互いの連絡先も知らない。
田中は詩歩の提案に少し面食らったようだったが、スマホの電源を入れた。
ショップを出たところで、田中は立ち止まって詩歩の顔をまじまじと見た。
「何かあった?」
「何って?」
「詩歩から連絡先の交換を言い出すなんてさ」
「だって、新しい彼氏の連絡先も知らないって、おかしいじゃない」
田中は目を丸くした。
「あれは……」
「いいの。さ、新しい彼氏さん、午後の講義まで二時間暇だから付き合ってちょうだい」
詩歩が田中を連れて行ったのはカラオケボックスだった。
「今日は歌いたい気分なのよ!」
氷がカランと音を立てるグラスを手に、詩歩はお気に入りの曲を探し始めた。
今日は驚くようなことばかりだ――そう思いながら、田中もドリンクに手を伸ばす。
「はい、次どうぞ」
「俺、歌はちょっと……なあ、さっきの本気なのか? 新しい彼氏って」
「いいじゃない、この間の続きってことで。それに、つまんなかったら終わりにすればいいんだし」
「俺に彼女がいるかも、って前提はないの?」
「だって、いないんでしょ?」
田中はぐうの音も出なかった。図星を突かれ、返す言葉が出てこない。
「ねえ、下手でもいいから歌ってよ」
詩歩にせがまれ、田中はしぶしぶマイクを握る。
「本当に下手だからな。ジャイアンとか言うなよ」
曲が終わると詩歩は堪え切れないように吹き出した。
「笑うなって……」
「だって、だって」
「ちくしょー、そんなに笑いたかったら、もっと笑わせてやる!」
田中はマイクを置いてテーブルをまたぎ、向かいの席の詩歩をくすぐった。
「あは、あははは。降参、もうやめて、あはははは」
いつの間にか詩歩はソファに仰向けになり、田中は詩歩に覆いかぶさっていた。
我に返った田中は、さっと身を起こして自分の席に戻る。
「悪い、なんか距離がバグった」
詩歩も起き上がりながら首を振った。
「田中さん、気にしすぎ。案外、奥手なのね」
詩歩の視線を避け、ドリンクを飲み干す田中を見ながら詩歩は思った。
――こんなに笑ったの、いつぶりだろう。この人のそばだと、張りつめた神経が解れていく気さえする。
ふと、ドアの外、廊下を横切る影が視界の隅に入った。淡い黄色が動いた気がする。
大きく心臓が脈打った。動悸が激しくなり、息苦しさに襲われる。
「はっ……はぁっ」
「詩歩?」
田中はすぐ立ち上がって、詩歩の座るソファに自分も腰掛けた。その田中の腕を、思わず詩歩はぎゅっと掴んだ。
「く、苦しい」
「えっ、どうした?」
田中を見上げた詩歩の顔は蒼白だった。
「息が……」
田中は一瞬固まったが、慌てて自分の鞄を引っ搔き回し、紙袋をひとつ取り出した。中身の和菓子をテーブルに放り、袋だけを詩歩に手渡す。詩歩を安心させるように肩をそっとさすった。
「これを使って呼吸して、ゆっくり。そう、ゆっくり」
詩歩の呼吸は次第に落ち着いていった。
「どこか……心臓でも悪いのか?」
詩歩はゆっくりと首を振った。
「私、きっとおかしくなったんだわ」
田中は黙っている。詩歩が自ら口を開くまで、いつまでもそうしていそうな表情だ。
「おかしな夢を見るの。最近は起きてるときまで……幻覚みたいな映像が浮かんだり、黄色いものを見ると嫌な気分になって……」
「怖かったな」
詩歩は頷いた。――そうだ、私が感じていたのは確かに恐怖だった。得体のしれない事象への恐れ。そしてその気持ちを受け止めてもらえて、自分はこんなにも安堵している。
「今日はもう講義は休んだほうがいいんじゃないか?」
「だめなの。面倒な教授の講義だから、休むと目を付けられちゃう」
「じゃあ大学まで送ってくよ」
「田中さんこそ、仕事に戻らないとだめなんじゃないの」
「新しい彼女を放っておけないだろ」
ふざけて見える割には、田中の声は優しかった。
詩歩は弱々しく微笑み、二人は店を出た。
その夜、詩歩は布団に潜り込み目を閉じた。あの数時間だけは、悪夢も忘れて笑っていられた。胸の奥に残る温かさが、今日一日のざわつきをようやく鎮めてくれる気がした。
――眠りに落ちたのは、ほんの数分後だった。
暗闇の中に、光が差す。
何かを見て疑念と怒りが噴き出している。
誰かの細い指がカップをそっと持ち上げる。なぜか見慣れた手つきだ。あれは黄色い蝶?
視界が揺れ、場面が切り替わる。
いつも夢で見ていたあの顔。大人になったあの顔の、口元だけがはっきりと見えた。口元しか見えないのに、泣いているのが分かる。
背後を、男の影が横切る。影だけなのに、冷たい気配が肌に触れた。
場面がまた変わった。
小さな祠。少しかび臭いような土の匂い。
夕暮れの光の中で、女が膝をついて、肩が震えている。
その口元が、ゆっくりと動く。
――「二人の……」
言葉の続きを聞く前に、視界が真っ白に弾けた。
「……っ!」
詩歩は息を呑んで目を覚ました。心臓が激しく脈打ち、口の中がカラカラだ。暗い天井を見上げたまま、震える唇が勝手に動いた。
「……さん……」
自分が誰の名前を呼んだのか、瞬時には理解できなかった。
ただ、胸の奥に残る恐怖と温度だけが、はっきりとそこにあった。




