10 相談
胸の中にはまだ怒りと、やるせない悲しみが漂っている。目を開けた瞬間、昨夜の夢の残滓が肌にまとわりつくように感じた。
泣きながら目を覚ましたことも、誰の名前を呼んだのかも、はっきり覚えていない。今はもう涙は乾いていて、部屋の空気はいつも通り静寂に満ちていた。
ぼんやりと枕元のスマホを手に取る。
連絡が来ているわけでもない。
それでも、昨日交換したばかりの田中の名前が連絡先にあると思うだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
――私はどうしちゃったの?
少し前から気づいてはいたことだった。
夢のことも、黄色いものを見ると不快になる気分も、誰にも話していない。
話せる相手なんていないと思っていた。
でも。
昨日、田中さんは何も言わなかった。夢のこと、言葉にするのも怖かったのに、私の気持ちを分かってくれた。
沈黙がこんなにも優しいものだなんて知らなかった。否定も分析も、慰めもなくて、ただ「聞いてくれる人がいる」という事実だけが、胸の奥にじんわりと灯をともした。
――もしかしたら、誰かに話してもいいのかもしれない。
全部じゃなくても、少しずつでも。夢の中で感じたあのざわめきや、目覚めたときの胸の痛みを、誰かと分け合ってもいいのかもしれない。
怖さはまだある。でも、田中さんの静かなまなざしが、私の中の何かをそっとほどいてくれた気がする。誰かに話すという選択肢が、自分にも残されていたのだとやっと気づいた。
詩歩は布団を押しのけて起き上がった。
鏡を覗き込むのはやめた。
「ん? おかしな夢?」
美咲のお勧めのカフェでランチを終え、デザートが運ばれてきたあとだった。
「うん、妙にリアルで……でも起きてる時も、夢の続きみたいな場面がフラッシュしたりするんだ」
やはり美咲も笑ったり、茶化したりしなかった。プリンのスプーンを唇に当てたまま、普段は見せない真剣な眼差しで考え込んでいる。
「それって黄色いものを避けたりするのと、関係があったりする?」
その言葉に、詩歩ははっと息をのんだ。確かに夢の中の女性は黄色い服を着ていた。でも、それが不快感と結びついているなんて、自分では気づかなかった。ただ、ただ、黄色を見るのがどうしようもなく嫌だった。それだけのことだと思っていたのに——。
「そ、そうかも」
「ただ変な夢を見る、ってだけなら、疲れが溜まってるんじゃないかなって思うけど……カウンセリングを受けてみたらいいんじゃないかな」
「精神科ってことだよね?」
「うん、心療内科とかかな。あと、脳神経外科で異常がないかを見てもらうのも大事だと思う」
美咲はとても心配してくれて、色々とアドバイスをくれた。勇気を出して話してみて本当に良かったと思う。
帰宅した詩歩は、着替えもしないでベッドに腰掛けスマホを取り出した。
心療内科、と打ち込んでみるが、その先へ進めない。
――大丈夫、病気なんかじゃないわ。
そうだ、病気。脳の病気なら幻覚を見ることがあるのかもしれない。精神科より先にそっちだわ。
もう一度、検索窓に「脳神経外科」と打ち込む。候補がいくつか表示されるが、どれも他人事のように思えて、指が動かない。
「……田中さんなら、どうするんだろう」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋の静けさに溶けていく。田中の顔が浮かぶ。あの、少し困ったような笑い方。
「幻覚も見てるって言ったら、笑うかな」
でも、笑いながらも、ちゃんと話を聞いてくれる気がした。
詩歩はスマホの画面を閉じ、連絡先を開いた。田中の名前に指をかけて、しばらく迷う。けれど、次の瞬間には、メッセージを打ち始めていた。
――ねえ、ちょっと相談したいことがあるんだけど。
待ち合わせた駅前のカフェには、二人とも五分とかからなかった。
最寄り駅が同じだから近いとは思っていた。ふと、酔った翌朝に田中の部屋を出たとき、見慣れた景色が広がっていて驚いたことを思い出す。
「そうか、眠っていない時にも、おかしなものが見えるのか」
田中も美咲と同じように、詩歩の話を真剣に受け止めた。
「勉強にも影響が出始めていて、このままじゃ良くないかもって」
「うん、自分から行動を起こすのは勇気あることだよ。病気かどうかは専門家に判断してもらうのがいいんじゃないか」
「そ、そっか。やっぱりそうだよね」
言葉にして『脳神経外科』と聞くと、やけに現実味が増した気がする。本当に重い病気だったらどうしよう。心の中でまた別の不安が頭をもたげた。
田中はそんな詩歩の心を見透かしたように言った。
「俺も一緒に付いて行くよ」
提案ではなく、決定事項として心に決めているのが、田中の声音にはっきりと出ていた。
「え……」
「ああ、ごめん、先走った。もしかして親御さんと一緒に行くのかな?」
「ううん、親には言ってない。言ったとしても、本気にはとってくれないと思う」
詩歩は自虐気味な笑みを浮かべて首を振った。
「分かった。なるべく早く診てもらおう、いつがいい?」
田中の声は穏やかだった。
「……一緒に来てくれる?」
自分でも驚くほど小さな声だった。けれど、田中は迷わず頷いた。
「もちろん」
たったそのひと言が、不安だった気持ちにそっと蓋をしてくれた気がした。




