11 異常なしの不安
――異常なし、か。
病院を出たあと、何度その言葉を頭の中で繰り返しただろう。
脳に異常はない。検査結果はどれも問題なし。
医師はMRI画像を見ながら説明した。専門用語が続き、最後に「異常はありません」と告げた。
続けて「ストレスかもしれませんね」と穏やかに言ったが、その言葉は、詩歩の胸のざわつきを少しも鎮めてはくれなかった。
むしろ、逆だった。
――じゃあ、この夢は? この胸の痛みは? 起きているときに見えるあの映像は……何?
答えがないという事実が、静かにじわじわと不安を広げていく。
駅までの道を歩きながら、詩歩は隣を歩く田中の横顔をちらりと見た。
病院の待合室でも、検査のあいだも、田中はずっとそばにいてくれた。何気ない会話で気を逸らし、飲み物を買ってきてくれたりした。
「……ごめんね、付き合わせちゃって」
ようやく絞り出した声は、思った以上に頼りない響きを持っていた。
「気にするなよ。結果が分かっただけでも、ひとつ前に進んだんじゃないか?」
田中はそう言って、詩歩の歩調に合わせてゆっくり歩く。この人はいつもこんな風に優しいのだろうか。いつも、誰にでも……。
「でも……何でもないって言われても、全然安心できないの」
「うん」
田中は否定しなかった。その“うん”の一言が、詩歩の胸の奥に静かに落ちる。
「次は……心療内科、かな」
自分でそう言って、ほんの少し心が怯えた。その気持ちを隠すように、詩歩は視線を落とした。
「予約の日、有給もらっておくよ」
迷いのない声だった。詩歩は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。田中の視線はまっすぐで、揺れていなかった。
「……ありがとう」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
不安は消えない。
でも、ひとりじゃないと思えたのは初めてだった。
――大丈夫。きっと、大丈夫。
そう思えるだけのぬくもりが、今は確かにあった。
家に戻ると、玄関の空気がやけに冷たく感じた。靴を脱ぎながら、詩歩はスマホを取り出す。
――心療内科もしくは精神科。
検索窓にその文字を打ち込むだけで、胸がざわついた。脳神経外科よりも、ずっと重い響きがある。
でも、行かなきゃ。このままじゃ、もっとおかしくなってしまう。そう思って、詩歩は深呼吸をした。
震える指で、近くのクリニックをひとつ選ぶ。予約画面が開いた。
――押せる。押せるわ。
詩歩は目を閉じ、指先に力を込めた。
ピッ。
予約完了の画面が表示された瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
同時に、背筋を冷たいものが流れていく。
部屋の隅で、何かが揺れた気がした。カーテン? ……いや、気のせいだ。
スマホが震えた。
『予約取れた? 無理しないでな』
田中からのメッセージだった。その文字を見た途端、涙が出そうになる。
「……ありがとう」
声に出すと、少しだけ呼吸が楽になった。
スマホを置いたあと、詩歩はしばらくベッドの上で天井を見つめていた。
胸の奥に残るざわつきは、さっきよりは弱まった。けれど、完全に消えたわけではない。
「……疲れてるんだよね、きっと」
自分に言い聞かせるように呟いた。目を閉じると、胸の奥に重い悲しみがじわりと広がった。夢の中の涙の冷たさが、まだ頬に残っている気がした。
夢の中の感情だというのに、どうしてこんなにも鮮やかに胸を締めつけるのだろう。
ひと息吸うたび、胸の奥がきしむ。まるで誰かを失った痛みが、自分のものになってしまったかのようだ。
「……違う。これは、私の気持ちじゃない」
そう言い聞かせたのに、胸の痛みはそこに居座り続けていた。
でも……明日になれば、少しは楽になっているかもしれない。
心療内科の予約も取った。田中も一緒に行ってくれる。
けれど眠りに落ちる直前、また彼女の感情が詩歩を支配した。
――怒り。
――悲しみ。
――どうしようもない喪失感。
詩歩は薄く目を開けた。部屋は静かで、広い家の中に自分がひとり取り残された気分になった。
「……寝なきゃ」
小さく呟き、詩歩は再び目を閉じた。
夢の中で、女の声が遠くから震えて聞こえてきた。
「あの子は……」
女は泣いていた。
誰かに必死で訴えていた。
けれど、詩歩の意識はその続きを聞く前に、深い眠りの淵へと落ちていった。




