8 川沿いの道
あれから数日後の朝だった。
母が朝食の支度をしているとき、台所のテーブルの上に丸められた包帯がぽつんと置かれているのを見つけた。布の端が少し汚れている。
「それ、いつの?」
母は包丁を握ったまま手を止め、振り返る。その声に心配の色はない。
「え、何が?」
「包帯よ。どこで怪我したの? ちゃんと言いなさい」
包帯を捨てたのは自分だ。もう痛みも腫れも引いていた、足を挫いたのはもう何日も前のことだ。だが、それを今になって母が見つけたことに、詩歩は苛立ちを覚えた。
「別に。転んだだけ」
短く言い放つと、詩歩は焼き上がったトーストを皿に移した。
その瞬間、また視界が揺れた。
マホガニーのような赤褐色の食器棚、黄色い花のような柄のティーカップを取り出す細い指。皿を持つ自分の手と、その指が重なってめまいを覚える。
「……っ」
なんとか皿はテーブルに置いたが、トーストは床に滑り落ちた。
「やだ、落としたの? もう一枚焼かないとだめじゃない」
母はもう包帯のことを忘れたように、パンを取り出した。それきり、その話は出てこなかった。
あれは――うちの食器棚じゃない。食器棚も、ティーカップもすごく高級に見えた。起きたまま夢を見ているような感覚だが、滑らかな磁器の感触がまだ手に残っている。
動揺し、落ち着かない気分のまま家を出ると、街はまだ眠りの名残を引きずっていた。夢の中を彷徨っているような心地で大学へ向かう。
授業に集中できない詩歩は、ノートに殴り書きのような線を引いた。
文章がうまくまとまらない。
後ろの席の人がペンを落とした音が、遠くで金属音のように響いた。詩歩はその音を不快に感じ、ふっと目を閉じた。
目の奥に鈍痛を感じる。瞼の裏に、点滅する明かりが浮かんでは消えていくが、映像が甦ることはない。――大丈夫、私は今起きてるんだから。
昼になると、美咲がランチに誘ってきた。
「私、パス。午後からの講義はないから帰るね」
「え~、すっごいお洒落なカフェを見つけたんだよ。一緒に行こうよ~」
美咲の明るくて社交的な性格に、多くの人は抗えない。だが今の詩歩はそんな気分になれなかった。
「ごめん、また今度付き合うから」
美咲の誘いは断ったが、このまま家には帰りたくない。適当な店でランチを済ませ、ショッピングモールを巡ってみたりする。
陽が落ちはじめたころ、詩歩は自宅の最寄り駅に着いた。
人混みを避けるように歩き、いつの間にかあの辻の方角へ足が向いている自分に気づく。
古ぼけた辻にひっそりと佇む祠。そこに立つと、風がぴたりと止まったような気がした。鉄の匂いと雨上がりに感じる、少し生臭い空気。
詩歩は立ち止まり、深く息を吐いた。
「その道、あまり通らないほうがいい」
また田中だった。同じ駅を利用しているのだから、不思議じゃない。仕事帰りらしく、コートの肩に細かな水滴が残っている。
取り留めのない会話を交わして、「送っていこうか?」の問いに背中を向ける。
――それなのに。
今来た道を足早に引き返した。
辻で渦を巻く風の囁きが、体にまとわりつくようで、不快な気分を拭えない。帰るつもりだったのに気が変わって、田中の背中を叩いていた。
「あれっ」
詩歩は肩をすくめた。そして、思いがけない言葉が口からこぼれた。
「ねぇ、どこか行かない?」
自分でも驚くほど素直な誘いだった。もう少しだけ一緒にいたいと思う気持ちを、まっすぐ家に帰りたくないという理由で上書きする。
「どこか行きたいところでもあるのか?」
田中の目が、じっと詩歩を見る。詩歩は無意識にその視線を避けた。見られることが、今日はやけに恥ずかしい。
「わからない。歩きたいだけかも」
田中は一瞬だけ表情を和らげ、うなずいた。
二人は言葉少なに歩き出した。
田中は詩歩の歩調に合わせて歩き、無理に会話を続けようとはしなかった。その静けさが、どこか救いのように感じられた。誰かと一緒にいるだけで、胸の重苦しさが少し軽くなる。
辻を離れ、商店街を抜ると、喧騒がふっと背後に置き去りにされる。代わりに、川沿いの道が眼前に広がった。
黄昏の光が水面に薄く揺れ、風に触れた草の匂いが、胸の奥のどこか懐かしい場所をそっと撫でていく。街灯がぽつりぽつりと灯り始めた。
田中がふと立ち止まり、詩歩に向き直った。
「この裏通り、なかなかいいだろ?」
詩歩は黙ってうなずく。
遊歩道のベンチに座ると、田中はポケットから小さな缶コーヒーを取り出し、差し出した。詩歩はそれを受け取り、何気なく視線を落とした。缶のひんやりとした感触が手に伝わってくる。
「ありがとう」
「無理して飲まなくていいけど……甘すぎるかもしれないからさ」
柔らかな声。カフェでの会話を覚えていたのだろうか。詩歩は戸惑いながらも、ほんの少しだけ笑った。
「……小さな川よね」
「うん、でも意外と深さがあって、流れも速いらしい」
「見た目とは違うのね」
「そうだな」
二人は並んで川面を見つめる。ただ横に座っているだけだったが、田中の存在が自分にとって徐々に大きくなってきていることを、詩歩は静かに確かめていた。
帰り道。
田中の手が詩歩の肩に軽く触れた。驚きとともに、胸が高鳴る。
手はすぐ離れたが、その温度は残った。
「ごめん、君の肩に草がついてたから。びっくりさせるつ――」
「君、君って私の名前、知ってるんでしょ?」
詩歩は恐縮する田中を遮って、挑戦的な態度に出た。強く奏でる心臓の鼓動を誤魔化すように。
「あ、ああ。えっと石黒さん?」
そう言って田中は少し眉をしかめた。
「詩歩でいいわ」
「詩歩……ちゃん?」
「……ちゃんはいらない。詩歩でいいってば」
詩歩は眉根に皺を寄せた。
「俺は田中といいます」
「知ってるわ、表札見たもの」
「ああ、そうだね。なんだか今更だな」
「ほんとよ」
田中と一緒にいると、世界が少しだけ安定する。帰り道は、行きよりも話が弾んだ。詩歩はいつの間にか、胸のざわつきを忘れていた。それが少し怖くもあったが。
家に着くと、夕食の匂いがいつもより温かく感じられた。
花瓶には別の白い花が生けられている。詩歩はそれを見て、小さく息を吐いた。
だがそれと同時に、何か大事なことを見落としているような感覚が突如湧いてきた。
――私はさっきまで田中さんと一緒にいたのよね?
手にはまだ缶コーヒーの冷たさが残っているのに、一緒に歩いた記憶だけが霞んでいた。




