7 断片
前日とは打って変わって、朝の空気はどことなく湿っていた。
包帯の端がスカートの裾に触れた。歩くたびに募る小さな違和感が不快だ。階段を下りる足取りが乱れた瞬間、足首に鋭い痛みが走る。
「おはよう、詩歩。時間は大丈夫?」
声は母のものだった。台所からは朝食の匂いが漂い、いつも通りの音がする。
「うん、平気」
詩歩はそう答え、テーブルに置かれたコーヒーを一口だけ飲んだ。父はいつも通り、詩歩より早く家を出ている。
目の端に、黄色い花が見えた。花瓶に挿された小さな花束。母が買ってきたのだろう。だが詩歩は眉間に皺を寄せ、視線をそらした。
家を出ると、空は薄く曇っていた。大学までの道はいつもより静かに感じられ、詩歩は足を引きずりながら歩いた。
講義室のドアを押して中に入ると、蛍光灯の白い光が目に刺さる。
講義が始まってしばらくすると、詩歩の視界がふっと揺れた。黒板の文字が一瞬滲み、教室の白い壁が二重に歪む。消毒薬の匂いがツンと鼻をかすめた。
心がざわめき、彼女は無意識に椅子の縁を握りしめた。周囲の学生は気づかない。教授の声が続き、スライドが次々と映される。
詩歩は息をのみ、まるで自分の居場所を確かめるように手元のノートへ視線を落とした。
昼休み、学食の長い列に並ぶ気力はなかった。詩歩は一人で外に出て、校舎の影に座り込んだ。
午後になって雲間から顔を覗かせた太陽が、湿り気を帯びた空気をさらに重くした。詩歩は息苦しさを感じて目を閉じた。
家に帰ると、気分はいくらかましになった。
夕飯の支度の音が聞こえ、テレビのリモコンが無造作にテーブルに置かれている。父はリビングのソファで新聞をめくり、詩歩の手が包帯に触れているのに気づかない。
「おかえり。ご飯はもうすぐよ」
キッチンとダイニングを行き来する母の声は淡々としていて、詩歩の足に目を向けることもない。詩歩は胃の辺りがきゅっと縮んだ気がした。
夕食の間、会話は断片的だった。母は絵画教室の話をしているが、父はテレビのニュースに目を向ける。
詩歩は箸を動かしつつ、改めて自分が家族の輪から外れていると感じた。自分だけじゃない、みんながそれぞれ別の方向を見ていて、心はバラバラだった。
食後、詩歩は自分の部屋に戻った。窓の外は薄暗く、街灯がぽつりぽつりと灯り始めている。ベッドに腰を下ろし、包帯の端をそっと引っ張ってみた。布の感触と消毒薬の匂いが、また胸の奥を刺激する。
――なんで、こんなにざわつくの。
詩歩は目を閉じたまま天井を見つめる。頭の中に、言葉にならない声が流れた。遠くで誰かが何かを囁くような、切羽詰まった声。その声の意味を理解できないまま、唇を噛んだ。
夜が深くなると、家の音も少しずつ消えていった。詩歩は布団に潜り込み、痛めた足を抱えるようにして眠りにつこうとした。
だが眠りは浅く、断片的な映像が次々と脳裏に押し寄せる。白い光、黄色い何か。
どれも確かな形を持たず、ただ詩歩を困惑させるだけだった。
――疲れているのに眠れない。
詩歩は無理やり、枕に顔を埋めた。外では遠くで車の音が通り過ぎ、家はしんと静まり返っていた。言いようのない不安が募り、ただ夜がゆっくりと過ぎていった。




