6 病院、行こう
梅雨明けを宣言するように、ぎらつく陽光が白い壁を照りつける。
今朝のキャンパスは、全体がいつもより眩しく感じた。
足首の痛みはまだ残っていた。階段を上るたびに、鈍い痛みが走る。
「詩歩、どうしたの? 足、引きずってない?」
声をかけてきたのは、同じ学部の友達・美咲だった。明るくて、誰とでもすぐ仲良くなるタイプ。
「ちょっと転んだだけ。大したことないよ」
「昨日も連絡つかなかったし、心配したんだから」
「寝てただけ」
嘘ではない。けれど本当でもない。
詩歩は仲のいい美咲にさえ、心から打ち解けたことはなかった。信頼し切るのが怖い。――もし裏切られたら、そんな埒もないことを考えてしまう。
美咲はそれ以上追及しなかったが、ちらりと詩歩の顔を覗き込んだ。
「なんか……疲れてない?」
「別に」
詩歩は視線を逸らした。
ガラス張りの校舎に映った自分の顔が目に入り、胸がざわつく。
――やめて。見たくない。
「今日、学食行こ? 新しいメニュー出たんだって。ほら、これ」
差し出されたメニュー表の表紙にはデフォルメされたウサギが描かれていた。
「……それ、裏返してくれる? そのウサギ、なんだかやだ」
「え、これ? かわいいじゃん。ウサギって小学校のときに校庭で飼ってたりしなかった?」
「うん、でもそれとは別」
美咲は不思議そうにしながらも、素直に裏返した。背中に、ふと何かの感触がよみがえる。――誰かの笑い声が頭の中で聞こえた気がした。
講義が終わる頃には、足首がじんじんと痛みだしていた。
帰ろうとしたとき、校門の前に見覚えのある姿が立っているのが見えた。
あの男……確か表札の名前は田中だったかしら。
スーツ姿のまま、スマートフォンを見ている。詩歩は反射的に方向を変えた。
――会いたくない。面倒なことは避けたかった。あの男はいかにもな雰囲気を持っている。
だが足首が痛み、歩幅が乱れた。その瞬間、田中が顔を上げた。
「……大丈夫?」
「平気。てか、なんでこんな所にいるの?」
「仕事で……近くに取引先があってさ」
ケガを放置しているに違いないと踏んだ田中は、学生証にあった大学まで足を運んだ。ただ、近くに取引先があったというのも嘘ではない。外回りのついでに立ち寄ったのだ。
「本当に大丈夫?」
「しつこい」
言い返したつもりだったが、声は弱かった。詩歩はそのまま歩き出した。
だが数歩進んだところで、足首が限界を迎えた。
「っ……」
思わず膝が折れ、地面に手をつく。周囲の学生がちらりと見るが、誰も近づいてこない。
「きみ!」
田中が駆け寄ってきた。
「触らないで」
「無理だよ。歩けないだろ」
「歩けるってば」
強がって立ち上がろうとしたが、足がまた崩れた。田中はため息をつき、詩歩の腕をそっと支えた。
「病院、行こう」
田中は支えた腕を強引に引っ張ったが、詩歩も力強くそれを振りほどいた。
「いらない」
「じゃあ歩いてみて」
詩歩は睨むように田中を見たが、足は言うことを聞かなかった。
「……ちょっとだけ、診てもらうだけだ。骨にヒビでも入ってたら大ごとだろ」
田中の声は静かで、押しつけがましくなかった。
「……分かった」
詩歩は何か言いかけたが、小さく頷いた。
タクシーに乗り込むと、詩歩は窓の外に視線を向けた。
田中は何も言わない。ただ隣に座っているだけだった。
病院で診察を受けると、軽い捻挫だと言われた。
湿布と包帯を巻かれ、歩くときは気をつけるようにと念を押される。
「ただの捻挫でよかった」
「当り前じゃない、あれくらいただの捻挫に決まってる……」
そうは答えたが、医者から『放っておいたら悪化してましたよ』と言われたことは黙っていた。
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に詩歩は包帯に触れ、その冷たさと薬の匂いに一瞬顔をしかめた。
「当り前じゃないよ」
田中は包帯を見つめ、言葉を選ぶようにしてから小さく呟いた。
「昔、守れなかったことが……いや、なんでもない」
病院を出た瞬間、詩歩は田中から距離を取った。
「もう帰る」
「送るよ」
「いらない。このやり取り、何度目?」
詩歩は歩き出した。
足首は痛むが、田中の前では弱さを見せたくないと、なぜか思った。
「今日はありがとう。でも昨日のこと、忘れて」
「忘れないよ」
詩歩は振り返った。足も、この男も思うようにならない苛立ちを含んで、語気は強かった。
「なんで」
「昨日の君、すごく辛そうだった」
胸が跳ねた。
昨日の夜の断片が、ぼんやりと浮かぶ。背中に感じた温度。揺れる視界。誰かに謝っていた自分。
「そんなことない」
「そうかもしれない。でも、謝ってた」
「……覚えてない」
「無理には……思い出さなくていいよ」
田中の声は、驚くほど優しかった。
「帰る」
詩歩は歩き出した。
足首が痛む。
それでも気づけば、いつもと同じ速さで歩いていた。




