5 泣いてたよ
寝返りを打つと、突き刺さるような陽光がまぶたを直撃した。
「わっ、まぶしっ」
――カーテン開けたの、誰よ。人の部屋に勝手に入ったのね。お母さんかな、起こしに来るなんて珍し……。
薄目を開けて、詩歩が見た光景は想像した世界ではなかった。
「えっ、どこ……」
慌てて上体を起こす。昨夜の服装のままで、詩歩は見知らぬベッドに寝ていた。六畳ほどの部屋には、もちろん見覚えがない。
バッグはベッドの脇のテーブルに置いてあった。バッグを引っ掴むと、部屋を出る。さほど広くないリビングに出たが、室内は片付いて小綺麗だった。
テレビの向かいの二人掛けソファから、長い足がはみ出している。
――昨日の男だ。
ソファに横たわる田中は、スーツのまま眠っていた。ネクタイは緩められていたが、腕時計は外していない。疲れ切った顔で、しかしどこか安心したような寝息を立てている。
詩歩は思わず眉をひそめた。
――なんで、私がベッドで、あんたがソファなのよ。
記憶はところどころ途切れている。酔っていたのは覚えている。転んだことも。でも、その後どうやってここに来たのかは曖昧だ。
足首に軽い痛みが走った。
スカートの裾は少し湿ったまま固まっている。
――最悪。
バッグを抱えたまま、そっと玄関へ向かう。靴を履きかけたところで、背後から声がした。
「……起きたのか」
振り返ると、田中が目をこすりながら上体を起こしていた。
「ごめん、勝手に寝かせた。ベッドの方が……その、楽だろうと思って」
「別に。どうでもいいけど」
詩歩は淡々と返した。
だが田中は気にした様子もなく、ゆっくり立ち上がる。
「足、大丈夫か?」
「平気よ」
強がって一歩踏み出した瞬間、足首がぐにゃりと揺れた。
「……っ」
思わず壁に手をつく。田中がすぐに近づいてきた。
「平気じゃないだろ」
「触らないで」
反射的に言ったが、田中は手を引っ込めない。
「昨日、かなりひねってた。湿布、買ってあるぞ」
テーブルの上には、コンビニの袋。
湿布、スポーツドリンク、痛み止め。そして、詩歩が飲んでいた銘柄のミネラルウォーター。
――なんで?
詩歩は言葉を失った。たった数回会っただけの他人に、ここまでする理由が分からなかった。
田中は気まずそうに頭をかいた。買い物袋に目をやり、さすがにやり過ぎたと思った。
「……放っておくわけにいかないだろ」
その言葉は、詩歩の心を落ち着きなくさせる。
昨日の夜、酔いの中で感じた何かが、今は別の形でよみがえる。
「別に、助けてなんて頼んでない」
「うん、分かってる」
田中の声は静かだった。責めるでもなく、押しつけるでもなく。ただ事実を述べるように。
詩歩は視線を逸らした。
「……帰る」
「送るよ」
「いらない」
靴を履き、ドアノブに手をかける。
その瞬間、田中がぽつりと言った。
「昨日、君……泣いてたよ」
詩歩の手が止まった。
「は? そんなわけ――」
「泣いてた。名前も言わずに、ずっと『ごめんなさい、ごめんなさい』って何度も」
一瞬、息が止まった。昨日の記憶は曖昧だ。
でも――謝っていた、という言葉だけが妙に胸に刺さる。
何に対して?
誰に?
詩歩は答えられなかった。
「……覚えてない」
「そうか」
田中はそれ以上追及しなかった。その優しさが、逆に詩歩をそわそわさせた。
「じゃあ……」
詩歩は小さく言って、部屋を出た。
階段を降りる途中、足首がまた痛んだ。だが振り返らなかった。
――泣いてなんか、ない。
――謝る理由なんて、ない。
そう思おうとするほど、胸の奥がざわついた。
外に出ると朝の空気は冷たく、吹き抜けた風はどこか鉄の匂いがした。
詩歩は無意識に、足を速めた。




