4 首を突っ込む男
「ほんっと、しつこい! 理由なんてどうでもいいでしょ」
夜の繁華街に声が響いた。
男女が口論しているようだが、周囲はまるで気にしていない。こんな場所で他人の痴話げんかに関わりたくないのだろう。
接待が終わった直後で、田中は気疲れしていた。明日は休日だが、やることは山ほどある。おまけに小雨がちらついてきた。
「放してよ、痛いってば!」
駅に向かって歩いていた足が止まった。
――やめろ、行くな。首を突っ込むな。
理性は止める。だが体は向きを変え、口論の声へ向かっていた。
若い男女だった。二人とも酔っているように見える。男は女の腕を掴み、絡みながらくだを巻いている。
――ああ、声だ。聞き覚えのある声に、体が反応したんだ。
カフェの、あの女子大生だった。
「ちょっと、ケガをするといけないから放そう。な?」
「なんだよ、リーマン。部外者はどっか行けよ」
男の腕に手をかけると、相手は田中を強く押しのけた。
「あっ」
詩歩が田中に気づいて声をあげた。
「なんだよ、知り合いかよ」
詩歩は含み笑いを浮かべて、視線を男に戻した。
「あんたと別れる理由を教えてやるわ、私の新しい彼氏よ。じゃ、そういうことだから」
詩歩はすばやく田中の腕に自分の腕を滑り込ませ、元彼氏に背を向けた。
「はぁ? ちょっと待てよ」
「私、しつこい男は嫌いなの。分かってるでしょ」
トンビに油揚げをさらわれたような顔の男を置き去りにして、詩歩はさっさと先へ進んだ。
「ちょっと、ちょっと君……」
少し距離を取ってから、田中は足を止めた。
「俺は君の名前も知らないよ」
「名前なんて別にどうでもいいじゃない。あーあ、飲み足りない。ね、お洒落なバーとか知らないの?」
「もうよした方がいいって。足元ふらふらじゃないか」
酔っぱらいの常套句『自分は酔ってない』を連発して、詩歩は駄々をこねた。
「見てよ、ほ~ら、全然平気なんだから」
田中が止めに入ろうと手を伸ばしたが遅かった。
くるりと回ったまでは良かったが、小雨で濡れたマンホールが詩歩の足を滑らせた。
「いった~い。やだ、スカートが濡れた。これ高かったのにぃ」
田中はため息をつきながら、尻餅をついている詩歩に手を差し伸べる。
「行くぞ、本降りになりそうだ」
だが、立ち上がろうとした詩歩の顔が歪んだ。
「痛っ。あ、ちょっと……無理っぽい」
「捻ったのか。まったく……」
肩を貸して立たせようとするが、酔いも手伝って、詩歩はぐにゃりと潰れたケーキのように崩れ落ちた。
もう一度大きなため息をついて、田中は背中を向けた。
「仕方ない、おぶってやる」
「あはは、楽~~」
のろのろと歩く田中の上で、詩歩はご機嫌だ。
だが二人とも、時間の感覚が抜け落ちていた。
「終電が……」
終電を逃した人たちが、タクシー乗り場に長い列を作っている。列に加わった田中は、詩歩を降ろそうとしたが、背中から心地よさそうな寝息が聞こえてきた。田中はもう一度大きなため息を吐いた。
――放っておくわけにもいかないし……タクシーに乗るまでの辛抱だ。
眠りこけている詩歩をタクシーに乗せたまでは良かった。
「どこまでですか?」
運転手の問いに、田中はハッとした。
必死に詩歩を揺さぶるが、まったく目を覚まさない。田中の背後にはまだ列が続いている。舌打ちの音が「チッ」と響いた。
田中は詩歩を奥へ押しやりタクシーに乗り込んだ。とりあえず自宅の住所を告げる。そのとき、詩歩のバッグからパスケースのようなものがちらりと見えた。
「住所を知るためだ、不可抗力だ」
そっとパスケースを開くと身分証明書だった。学生証だ。
――こんな年齢だったのか!
だが驚いている場合じゃない、住所が分かるものが何もない。
そうこうしている間に、タクシーは自宅アパートに着いてしまった。




