56 事故
「コンビニでタオル買ってくる」そう言って田中は知佳をベンチに残した。
知佳は全身ずぶ濡れで、がくがくと小刻みに震える膝を抱えて寒さに耐えていた。ふと、ほのかな薬草のような匂いがしたと思うと、知佳の隣りには若い男が腰掛けていた。
「あっ」
「やあ、どうも」
あの……男だった。夜なのに真っ黒なサングラスをかけて、口元には軽薄そうな笑みを浮かべている。
「どうして今頃! 辻で声をかけたときは、現れなかったじゃない! それになんでこんなことを、私が願ったのは……」
掴みかからんばかりの勢いの知佳に、男は軽く両手を挙げた。
「あれあれ、だめだった? 気に入ってもらえると思ったんだけどなあ」
「なっ……」
すぐには言葉が見つからなかった。こうなったのは契約がうまくいかなかったせいじゃなかったの?
「対価を……事故で死んでしまったから、対価を払えなかったせいじゃないの?」
「払えるかとは聞いたよ。でも、等価じゃなきゃ駄目なんて、一度も言ってない」
「じゃあ私は払えたの? その結果がこれなの?」
男はサングラスに手を掛け、白い歯を見せた。またサングラスを外す気なのかと、知佳は身構えた。
「これを結果と捉えるかは君次第だ。ふっ、人間って……面白い」
「詩歩」
田中が戻ってきた。紙袋を両手に下げて、服も着替えている。
「田中さん」
知佳はベンチから腰を浮かしたが、隣に座っていたはずの男の姿はもう消えていた。
「い、いまここに、男の人が座ってなかった?」
「ここって、そのベンチに? いや、誰もいなかったと思うけど」
田中は紙袋をひとつ、知佳に差し出した。
「洋品店が開いてたんだ。適当に服を買ってきたから、着替えて。土手に降りたら見えないと思う。俺は見張ってるから」
知佳は気が動転していたが、寒さでどうにかなりそうだった。言われた通り、土手に降り、水を吸って重くなった服を脱ぎ捨てた。袋の底にはビーチサンダルが入っていた。
着替えて戻ると、田中はベンチに座ってタオルで頭を拭いていた。知佳にも真新しいタオルを渡す。
「海水浴の帰りか、風呂上がりだな」
田中がぽつりと言った。
「ありがとう。あの……ごめんなさい、本当に」
「……これから、ちゃんと生きていくと約束してくれ」
「生きて、いくわ」
田中がベンチから立ち上がった。
「一人で帰れるか?」
「ええ……」
「そうか。じゃあ、な」
田中は立ち尽くす知佳に背を向けた。ゆっくりと歩き出した田中が、ふいに立ち止まり振り向いた。
「あれは、事故だったんだ」
知佳は一瞬息を飲んだが、頷いた。
「……うん」
去っていく田中の背中を見守りながら、知佳の瞳からはまた大粒の涙がこぼれた。




