55 償い
いてもたってもいられず、田中は電車を降りた。
詩歩に電話してみるが、通じない。
詩歩の家は? 自分の部屋の近くだとは知っているが、具体的な場所は知らない。この時間に大学にいるはずはないし……。
――落ち着け。
田中は大きく息を吐いた。
気が動転して思わず電車を降りてしまったが、まずは自宅の最寄り駅へ向かったほうがいいのではないか。
またすぐ電車に飛び乗った。最寄り駅に着くまでのあいだ、はやる気持ちを抑え、田中はもう一度手紙に目を落とした。
――田中俊一様
すでに想像がついているでしょうが、お金の送り主は私、石黒知佳です。直接には受け取ってもらえないと思い、弁護士に仲介を頼みました。
とてもこんな金額のお金で償えることとは思っていません。お金で償えることだとも。
でも、事故の賠償金も支払われていないことを知り、お金をかき集めずにはいられませんでした。
お母様が亡くなっていたことも、今頃になって知りました。
私を許してはくれないでしょうね。あなたの家族を奪ったこと、こんな私があなたを愛してしまったことを。
でも、あなたに出会えて私は本当に幸せでした。今も心の中はあなたとの思い出で溢れています。
できることなら、何も知らないころの詩歩に戻りたい。そうしてあなたと一緒にいたかった。
でも、私はあなたに償わなければいけないわ。私にできることはもうこれしかないの。
――償う、だと? 償わなければいけない? 一体、何をするつもりなんだ。
駅に着くと、ドアが開く間も惜しんで電車を飛び降りた。
人でごった返す駅の中で、詩歩によく似た後ろ姿が階段を下りていく。
「詩歩!」
駅前のタクシー乗り場で追いついて、思わず腕を掴んだ。
「えっ」
「あっ、すいません。人違いでした」
田中が腕を放すと、若い女は憮然としながら歩き出した。
――くそっ、何をやってるんだ、俺は。
周囲を見渡したが、どこを探せばいいか分からない。もしかしたら、自分の取り越し苦労で、詩歩は家で夕食でも取っているかもしれない。
なのに不安は消えなかった。嫌な予感がするとはよく言うが、今の自分がまさにそれだった。あの辻を通るときに、ふと感じる不快感に似ている。
田中の足は自然と辻へ向かっていた。
辻を通り過ぎ、手紙の言葉を一つ一つ反芻しながら、商店街を抜けた。八時を過ぎた今は、通りゆく人もまばらだ。
――確かに罪を犯したなら償うのは当然かもしれない。だが、その形は違うぞ。
川沿いの遊歩道にでた。人通りはなく、一日の終わりを感じさせる光景を見ると焦りが募り、駆け出した。
ふたりで座ったベンチはこれだっただろうか。
そう思った矢先、ベンチの足元に置かれた口の開いた缶コーヒーが目に飛び込んで来た。
ハッとして、暗闇に目を凝らした。
遊歩道は薄明るいが、川辺は真っ暗で良く見えない。だが、何かが動く気配がした。
大きく鼓動が鳴った。
斜面を駆け下り、草の中に分け入っていく。明らかに不自然な水音が、急げと田中に告げた。
「詩歩!」
暗闇の中で、胸のあたりまで水につかった詩歩が振り向いた。
「田中さん」
「何やってるんだ、早く出てこい!」
「来ないで! 来ないで……」
知佳は身をひるがえし、奥へ進もうとしている。田中も躊躇せずに川に入っていった。流れが思ったより速く、足をすくわれそうになる。
「それが、それが君の償いなのか。死んで詫びると言いたいのかっ」
「そうよ! これしかないの、これでも足りないくらいよ。だから来ないで!」
田中は知佳の腕を掴もうと手を伸ばしたが、知佳はそれを振り払った。ぎりぎりのバランスで立っていた知佳の体が揺れた。小さな叫びとともに仰向けに倒れた華奢な体は、あっという間に川の流れに攫われた。
「詩歩!」
流れてきた手が、田中の目の前をよぎった。知佳の細い手首を掴むことに成功した田中は、決してそれを離さなかった。
ものの数分のやりとりだったが、川べりに辿り着いた二人は、フルマラソンを終えたあとのように疲弊しきっていた。
「はぁ……こんな、二度とこんなことはするな」
水を飲んでしまったのか、咳き込みながら知佳は反論しようとした。
「……でも、でも、私は……」
「いつ俺が償ってほしいと言った? 俺はそんなものを求めてはいない。そんなことをしたって……」
――そんなことをしたって、由衣は帰ってこないんだ。
田中がなにを言いたいかは知佳にも理解できた。失われたものはもう戻らないのだ。
後悔か、自分の罪の深さへの畏怖の念か、それとも罪の償いすら否定された絶望か。知佳は流れる涙を止められなかった。
地面に両手を着いたまま、川の水に濡れた草に向ってつぶやいた。
「お願い……死なせて。私はもう独りぼっちなの。あなたを失った私はもう……」
「辛くて生きていたくないのか? 俺を失ったから? だけど、詩歩。俺も君を失ったんだぞ」
知佳はハッとして顔を上げた。暗がりに慣れた目に、田中の顔が飛び込んできた。最後に田中の部屋で見た怒りではなく、悲しみがその顔を覆っていた。
「……私には生きていくことが……償いなのね」




