54 あの日の風景
もう、やり残したことはない。
弁護士から連絡が入り、田中がお金を受け取ったことを知った知佳は、ぼんやりとアパートの窓から外を眺めていた。
終わらせ方を想像してみたが、しっくりくるものがない。失敗する可能性がある方法は避けたい。かといって人を巻き込む危険があることも絶対にだめだ。
急ぐ必要はないのかもしれない。でも、この命をのうのうと生きながらえさせておくわけにはいかないのだ。罪の清算を先延ばしにはできない。
――あの辻へ行ってみよう。
あそこがすべての始まりだったのかもしれない、知佳はそう思った。
こうやって来てみると、本当に何の変哲もないただの十字路。あんなに気味悪がっていたのが、ばかばかしくなってくる。
辻を過ぎて商店街に入った。夕刻過ぎて、閉店の支度をしている店舗もちらほら見かける。
惣菜屋の店先からおいしそうな匂いが漂ってきた。
――いい匂い。筑前煮かしら。
母の作った筑前煮を思い浮かべながら、こんなときでもお腹はすくのだと、思わず、自分がおかしくなった。
お腹は空いていたが、何かを食べようとは思わなかった。商店街を抜けたところにある自動販売機に目がいき、缶コーヒーを買った。
遊歩道のベンチに腰掛け、缶コーヒーを握りしめたまま、揺れる水面をずっと見つめていた。知佳の耳に届くのは、途切れることのない川の水音だけだった。
――あのときの、缶コーヒー。あれは詩歩の部屋におきっぱなしだ。
あの頃は、この遊歩道をふたりで歩いたことさえ、夢なのか現実なのか分からなかった。
でも今は違う。あのとき飲まなかった缶コーヒーを、詩歩はなぜかクローゼットにしまい込んでいた。
――肩が触れ合うほどの距離でこのベンチに座っていた。
あの日の、夕暮れの風景を思い出しながら、知佳の心は自分でも驚くほど凪いでいた。
――ここにしよう。
辺りはすっかり暗くなっていた。時間を見ようと左手を持ち上げたが、時計は売ってしまったのだった。
ポケットには無意識に入れたスマートフォンが入っていた。
――七時二十分
もう少し待とう。もう少し人通りがなくなるまで。
遊歩道の灯りは川まで届いていなかったが、川に入っていくところを人に見られてはまずい。
知佳はゆっくりと缶コーヒーに口をつけた。
「終わった~~」
隣の席で後輩が伸びをしている。田中もあくびを噛み殺した。
「もう八時になりますよ~、昼からやってこの時間とかもう、勘弁してほしいっすよね」
久しぶりにやっかいなトラブルだった。
駅に向かいながら、田中はまだ仕事のことを考えていた。
――あそこまで詰めておけば問題ないはずだ。
電車に乗って席に座った途端、眠気が一気に押し寄せてきた。
ガクンと頭が垂れた衝撃で目が覚めた。
――寝てたな。降りる駅はまだ先か。何時なんだ……
鞄を開けてスマートフォンで時間を確かめる。五分ほどしか眠っていなかったようだ。そのとき、ふと鞄の中の封筒が目に入った。
田中は封筒から手紙を取り出した。
「……っ」
手紙を握りしめたまま、田中は勢いよく立ち上がった。




