53 受け取り
知佳は最後まで嘘を貫いた。
知佳だという事実を否定したときの母の絶望した表情は、知佳の心臓を締めつけた。
――でも、これでいい。
そして今度こそ、関係のない人を巻き込まないように、慎重に場所と方法を考えなければ……。
田中は法律事務所から届いた手紙に目を落としたまま、困惑していた。
匿名での金銭の譲渡。だが、数百万にもなる金額で、しかも端数まで妙に細かい。この数字がなにを意味するのか、しばらく考え込んでいた。
誰かにお金を貸したか? 利子を付けたからこの金額なのか? いや、利子をつけたとしても、何百万もの金を貸した記憶はない。
――待てよ、匿名だって?
田中はすぐ法律事務所の担当弁護士に連絡を入れた。
「いえ、受け取るための条件などはございません。ご希望の受け取り方法をお知らせくだされば、いつでもお渡し可能でございます」
落ち着いた声の主が、電話を通して田中の疑問に答えた。
――詐欺の類でもない。だとしたら、あと可能性があるのは……。
「私が受け取りを拒否した場合はどうなりますか?」
「向こう二十年間、供託の形で残されます。気が変わることもあるかもしれないから、との意向です」
相手の弁護士は依頼人の名前は明かせないと言い張った。だが、受け取りと交換でなら、依頼人が田中宛に残した手紙を渡す、と。
田中が思い浮かべたのは、やはり詩歩だった。詩歩、いや知佳なのか……そんなことはどうでもいい。もし詩歩なら、受け取ってから返せばいい。
――俺は、金なんて欲しくない。
詩歩は金で俺に償おうとしてるのか? あいつはそんな人間だったか?
石黒建設の令嬢ともなれば、やはり行きつくところは金になってしまうのか。
確かに母さんはずっとお金で苦労していた。夫に先立たれ、昼も夜も働いて、俺と由衣を養ってくれていた。その由衣を亡くしてからも、俺のために働きずくめで、自分を労わる時間も持てないまま……。
せめて俺がもっと大人だったら……バイトして、少しでも家計を助ける稼ぎができる年齢だったなら。
いや、全ては由衣の命を奪ったやつのせいだ。
そう、ずっと恨んでいた。
「……さん、田中さん。お昼行かないんですか?」
隣の席の後輩が、田中の後ろに立って怪訝そうにしている。
「あ、ああ。もうそんな時間か」
「大丈夫ですか? 最近、元気ないみたいですけど」
「そんなことないぞ、いつもと変わらない」
「ま、田中さんから元気を取ったら何も残らないんですから、お願いしますよ」
「おまっ……」
後輩は笑いながら、設計室であるオフィスを出て行った。
田中は時計を見た。弁護士との約束まであと十分ほどだ。急がなくては。
会社から少し離れたカフェで待っていたのは、地味な風貌の弁護士だった。あまり……頭の良さそうな感じには見えない。
――本当に弁護士なのか?
失礼なことを考えながら、向かいに座った。
「口座への振り込みをご希望とのことでしたので、昨日、全額をお振り込みしました。ご確認いただけますか?」
見た目とは違った、澄んだ声が田中に言った。
「はい、確かに」
スマートフォンで口座を確認した田中は、自分が少し緊張していることを改めて意識した。
弁護士は一枚の封筒を取り出した。
「こちらが依頼主様が田中様に宛てた手紙になります」
弁護士の前で手紙の封を開けることはしなかった。
手紙をテーブルの上に置いた弁護士の顔に、ほんの僅かな興味の色を見て取ったせいもあるかもしれない。
なんにせよ、オフィスに戻り一旦冷静な状態に戻ってから、この奇妙な金額を送ってきた相手を確かめたいと、田中は思った。
オフィスに戻ると、慌ただしい空気が満ちていた。皆、ランチタイムから戻ったばかりのはずだが、電話応対やら、パソコンにかじりついて眉根を寄せている。
「あっ、田中さん! いいところに戻ってきてくれました。ちょっとしたトラブル発生です……」
――この後輩が『ちょっとした』と言ったときは、ちょっとしたことだった試しがないな。
田中は小さなため息を吐きながら、デスクに戻った。




