52 母の勘
『悪いことをした人は、同じだけ罰を受けるの』
小学生のころ、遠足の帰りのバスの中で聞いた先生の言葉。今、それが唐突に知佳の頭の中に蘇った。
――田中さんの幼い妹の命と、私の命が等価かどうかは分からない。でも私が差し出せるものはもう、これしかない。
私は裕磨と晴美の子どもは生まれてくる必要はないと思っていた。それがこうして、『私』として生まれてきたのは、償いのためだったのかもしれない。
知佳は石黒家の顧問弁護士の事務所で、田中への送金の相談をした。
「私から直接渡しても、受け取ってもらえないと思うので。それに口座も知らないんです」
「それで…わたくしどもが、仲介するのをご希望ということですね?」
「はい。方法はどういった感じになりますか?」
「そうですね……」
知佳の対応にでたのは、中堅クラスの弁護士だった。一風変わった依頼などいくらでもこなしてきたのだろう、興味を示すことなく無表情で返事をした。
「相手様に送金依頼のお話を文章で送ります。口座に振り込み、直接手渡し、もしくは事務所に来訪。いずれを希望されるか伺いをたてます」
ここで少しだけ、弁護士の眼鏡の奥の目に違った色が浮かんだ。
「匿名をご希望ですよね? 相手が尋ねても名前を明かさないほうがよろしいですか?」
――匿名を希望なら、手切れ金というわけではないか。
金持ちの子息や令嬢のこんな依頼はよくあった。これもその類の件。弁護士はそう考えていた。
「相手が受け取ってからなら、名前を明かしてもいいです」
――私からのお金を田中さんは受け取るだろうか? その意味を知ったら納得してくれるだろうか。
少しだけ間をおいて、弁護士は知佳に提案した。
「事情がおありのようですが……相手様が受け取ることを条件に、石黒様の名前を明かしてはいかがでしょうか?」
知佳は弁護士の提案を受け入れた。その際には知佳からの手紙を渡すことにして、後日送付する約束で事務所をあとにした。
田中が受け取りを拒否した場合に備えて、弁護士は向こう二十年の供託の方法も提示した。二十年あれば、気持ちや事情が変わることもあるだろう。
――やるだけのことはやった。
そう思った知佳の足は、また石黒知佳の両親の元へ向かっていた。
このままにしておけないことが、あとひとつ……。
石黒保は、娘婿の養女である石黒詩歩の背中をじっと見つめていた。
妻の優子の勘は今まで一度も外れたことはない。だがそれにしても、今回のはいささか突飛過ぎる気がするが……。
「それでは、君は裕磨君の実の娘だと言うのだね。晴美さんとの間の」
「あの人は…父は知佳さんがなくなったあとも、自分の地位を守りたかったんだと思います。嘘をついてまでも」
「それは確かなのかね……」
強く疑っている様子ではなかったが、保は念のため尋ねた。
「なにか……証明できるものはあるのか?」
保の言葉を遮って優子が身を乗り出した。
「私は詩歩さんの言うことを信じるわ。だって、あなたは知佳なんでしょう? 知佳の生まれ変わりなんでしょう?」
「優子、何を言ってるんだ」
「私には分かるのよ、自分のお腹を痛めて生んだ子よ。間違えるはずがないわ、知佳が私たちの元に戻ってきてくれたのよ」
――いつもは穏やかな母が、こんなに取り乱して……。
そう思いながらも、言葉にしては伝えられないことを、母が感じ取ってくれたことに、知佳は胸がいっぱいになった。
でも、ここで知佳だと認めることはできない。母に再び娘を失う悲しみを与えるわけにはいかないから。




