57 その先
「石黒さん、新店舗の設計図はどうなりました?」
「一案がこれです。でも、こことここは変更したほうがいいと考えてます」
知佳は大学を卒業したあと、外資系アパレルの開発事業部に就職した。希望していた部署とは違うところに配属されたが、三年目の今は、かなりやりがいを感じていた。
「そうだね、その方がいい。じゃあ、設計会社との打ち合わせは任せていいかな?」
「はい、頑張ります」
忙しい日々の中でも定時で仕事を終えた知佳は、家とは違う路線の電車に乗り込んだ。
今日は金曜日。週末の帰り道、電車の中にはなんとなく浮き立つような雰囲気が漂っている気がする。
見るともなしにスマートフォンを見ていると、LINEの通知が入った。母、晴美からだった。
今年定年を迎えた裕磨とともに、晴美の実家がある街に引っ越すとの連絡だった。
知佳が二人のもとを離れてからは、一度も顔を合わせていない。
あのあと、裕磨は業績の低下を理由に常務から下ろされていた。そして古巣のイシグロ設計に戻され、そこで定年を迎えたらしい。
業績の低下とは言うが、知佳は石黒保が動いたのだと思っている。現に、石黒家の籍を外され、林姓に戻っていた。
だが、それでも晴美は裕磨から離れることはなかった。晴美なりの選択なのだろう。彼女らしい、と知佳は感じた。
『体に気を付けて』
知佳はそう返信して、スマートフォンを閉じた。
知佳は週末は石黒家に帰るのが恒例となっていた。
「知佳さん、おかえりなさい」
廊下の奥、台所に繋がるドアから母が顔を覗かせた。
「お母さん、無理しないで。ご飯はお手伝いさんに作ってもらったらいいのに」
台所に入ると、母は料理の最中だった。
「知佳さんが来てくれる週末だけは、私が作りたいのよ」
知佳は両親にすべてのことを打ち明けていた。今度は保も知佳の話を信じたようだった。信じざるを得ないような事柄をたくさん聞かされたせいかもしれない。
二人は知佳に家に戻ってほしいと願った。それは今も同じようだが、知佳は辞退した。
あのあと田中は、送られてきたお金をすべて返してきた。そのお金で大学に通い、未だにあの小さなアパートに住んでいる。
――でも、もう少し近くに引っ越ししてもいいかもしれない。
両親も高齢だ、近くにいたほうが安心できる。そう考えながら、知佳は週末を懐かしい家で過ごした。
※
朝の慌ただしい時間に、猫のトイレ掃除をしながら田中は文句を言った。
「お前なあ、どうしていつも俺がでかける直前にトイレするんだ?」
遅刻ぎりぎりで出社した田中に、隣席の後輩が笑いかけた。
「あれでしょ、また猫ちゃんでしょ?」
猫と聞きつけて、後ろの席の若い女子社員も話に飛びついた。
「田中さん、猫飼ってるんですか? いいなあ~メスですか? オスですか?」
「メスだね。メスなんだけどやんちゃでさ、もうあちこち傷だらけだよ」
「田中さんはね、困ってる人とか、放っておけないたちなんだよ。だから野良猫も拾ってきちゃうんだ」
暗い路地でか細い声で鳴いていた子猫の姿を、田中は思い起こしていた。誰かが守ってやらなければ死んでしまう。あのときは、そんな思いで必死だった。
でも今は、その思いは以前とは少し違うと感じている。切羽詰まった脅迫めいた感情ではない。気づけば、肩の力はすっかり抜けていた。
「田中さん、ファッションビルの設計に関して、先方の担当者が来てるから応対してくれる? 田中さんの担当だったよね?」
受付からの内線電話を終えた上司が田中に告げた。こういう連絡はチャットより早い。
田中は一階にある受付まで、クライアントを迎えに行った。
「どうもはじめまして、わたくし、担当の田中ともうし……」
「田中さん!」
「……君!」
田中の名刺を差し出した手が宙で止まった。記憶より少しほっそりとした彼女が目を見開いて立っている。
「お久しぶりです。四年、五年になるかしら?」
「そんなになるんだね。まさか、君がクライアントだなんて想像もしてなかったよ」
「元気で、やってます。私、しっかり生きてます」
「うん……良かった、ほんとに元気そうで」
「では……打ち合わせをお願いします」
「もちろんです。それでは、オフィスにご案内します。修正をご希望とのことですね?」
「はい、よろしくお願いします」
ちょうどエレベーターが到着した。中からは何人か下りてきたが、すれ違いざまにふっとハーブのような香りが吹き抜けた。
知佳は振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「どうかした?」
エレベーターの中から、田中が聞いた。
「いえ、気のせいでした。行きましょう」
知佳は微笑み、エレベーターへ乗り込んだ。
おわり。




