47 衝動
その週末までの、なんと長く感じたことだろう。
だが、いつものように駅で落ち合うことはなかった。ただ、話したいことがあるから部屋に来てほしい、と。
――別れを切り出されるのだろうか。
知佳は憂鬱な気持ちで、マンションの廊下を歩いていた。
その別れを自分は受け止められるのだろうか? 考え直してもらうことは可能なのだろうか?
いえ、もしかしたら、もう少し詳しい話が聞きたいと思ってくれたのかもしれない。それで分かってもらえたら、相談したいことは山ほどあるのに……。
ドアを開けた田中の表情は硬かった。
それを見た瞬間、知佳は望んでいなかったほうの予感が当たると確信してしまった。
「久しぶり、ね……」
「うん……座ってて、お茶でいいかな?」
知佳は田中の言う通りに、黙ってソファに座った。自分が淹れようかと聞いても、断られるだろうと思った。
湯気の立つお茶を前にして、気まずい沈黙がふたりの間を流れた。
テーブルを挟んで、はす向かいに座った田中は、じっと手の中の湯のみに視線を落としている。その顔には、苦悩とさえ呼べるような表情が浮かんでいた。
――きっと、悩んでいるのね。この人は優しい人、私を傷つけない言葉はないかと、心を砕いているんだわ。
それなら、もういっそ自分から……そう思った知佳が、口を開きかけたときだった。
「このあいだの話……」
「あっ、ごめんなさい、突然あんな話をされて戸惑ったわよね。あれはもういいの、きっとあなたが言ったように……」
――いっそ自分から。そんな思いとは裏腹に、口は勝手に言葉を走らせていた。
「いや、たぶん……信じるよ」
「えっ」
「でも、信じてしまうと……俺は」
知佳の視線を避けながら田中は言ったが、またすぐ下を向いて言葉を詰まらせてしまった。
――決心したんだ。このまま知らなかったことにはできない。もう一度話し合えば、上手く説明がつくことだったのかもしれないんだ。
「詩歩……以前、俺の家族の話を聞いたことがあったね。俺には妹がいて…でも死んでしまったんだと」
「ええ、覚えているわ」
「二十年前の話なんだ。うちは母子家庭で、母親がいない時間は俺が妹の面倒をみてた。でも、あの日……友達が新しいゲーム機を買ったから、遊びに来ないかって誘われて」
田中は手の中の湯飲みから、お茶を口にした。手が僅かに震えているように見えたのは気のせいだろうか。
「分かってたんだ、早く帰らなきゃって。でも、もう少し、もう少しって……いつも妹の面倒をみてるんだから、今日くらいって……」
田中はまたお茶をすすった。どれだけ飲んでも、喉の渇きが癒えることはないと分かっていながら。
「雨が降り出して、傘を持っていない俺のために外に出たんだ。もう外は暗くなっていて、それで、それで車に轢かれて……」
「そんな……」
「俺がっ、俺が早く帰っていたら。ゲームなんかに釣られないで、真っすぐ帰っていたら、由衣は事故にあうこともなかったのに!」
「それは……田中さん、あなたのせいじゃないわ。あなたが悪いんじゃない」
知佳はソファから離れ、うなだれる田中の背中にそっと手を置いた。だが田中は乱暴に体をよじった。
「そうだ、あんたのせいだ! あんたが悪いんだよ! 復讐なんか願ったせいで、由衣は……」
田中にはじかれて床に手をついたまま、知佳は目を見開いた。そうだ、スマートフォンで調べた事故の記事。被害者の少女の名前……田中由衣。あの記事に載っていた名前が、目の前の男と重なった。
「う、うそ……そんな、そんな」
「うそじゃない、ちゃんと調べたんだ! あんたが、あんたがっ」
知佳に背中を向けていた田中は、怒りと悲しみの涙を浮かべて振り返った。
涙で視界がにじんだ。気づいたら手が伸びていた。
震える手で、知佳の細い首を掴んだ。柔らかい皮膚に触れた瞬間、思わず指に力がこもった。
――この、目の前のこれが、由衣を奪った……。




