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復讐の願いが叶うとき  作者: 山口三


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43 父と母


 あれから四日ほどが過ぎた。知佳は彼女のことをなんと呼べばいいか、未だに迷っていた。迷っているというより、「母」と呼ぶことに抵抗があった。


 生物としてなら、彼女は確かに「母」だろう。だが感情ある複雑な生き物として、私は彼女を母とは呼びたくなかった。人間の本質は魂にあるはずだ。私は石黒知佳だ。だから彼女はやはり、私の母ではない。


 そんなこじつけめいた考えを、知佳はこの四日間、頭の中で反芻していた。


 井上晴美に対してさえそうなのに、今日は裕磨が出張から帰ってきた。


 玄関の扉が開く気配がして、足音がリビングに近付いてきた。


「ただいま」


 知佳はゆっくりと振り向いた。


「……」


 声が出てこなかった。


 数日前までは「父」で、この中年の裕磨の顔が当たり前だった。でも四日前の「記憶」の裕磨は二十代後半。二十年の時間という残酷さが、知佳の胸を締めつけた。


 その二十年の間に、裕磨は石黒建設の常務になっていた。


「詩歩、なんだ? お父さんの顔に何かついてるのか?」


「あっ、なんでもないわ。おかえりなさい」


 夕食後に母はコーヒーを淹れた。食器棚から母がコーヒーカップを取り出すのを見て、唐突に映像が甦った。


 あの日、母がティーカップを捨てていた場面の違和感。ティーカップの取っ手が二つ、袋から覗いていたのだ。母はお揃いのティーカップを二つとも処分してしまっていた。


 ――今さらなのに。


 あのティーカップのことを知る人はもう誰もいない。二十年間、保管しておいたものを、あんなきっかけで捨てるなんて。いったい、井上晴美はなにを思い、あのお揃いのティーカップを捨てたのだろう?


「マホガニーの……食器棚はどうしたの?」


 何を意図したわけもなく、気づけば口から言葉がこぼれていた。裕磨はスマホに目を落としたまま、反射的に答えた。


「あれは引っ越しのときに売ったよ」


 ソーサーの上に戻そうとしたコーヒーカップを持つ手が、ピタリと止まった。


「……お前が、生まれる前の話だが……お母さんか」


 裕磨の視線の先には、外したエプロンを手にしたまま青ざめている晴美が立っていた。


「わ、私は知らない。詩歩に食器棚の話なんてしてないわ」


 知佳は席を立った。晴美は知佳が部屋に入っていくのを、固唾を呑んで見守っていた。


 部屋に戻ると、暗がりの中でスマートフォンの画面が明るく光った。田中からの通知だった。


 心臓が、ひとつ大きく打った。


 詩歩の体の反応なのか、自分の心が田中を忘れていないのか。彼の文字を見て、会いたいと湧き上がる気持ちが誰のものでもいい。今はただ田中に会いたかった。


『明日帰るから、夜にでも会えない?』




 翌日は普段通りに大学へ行った。


「詩歩、おはよう。朝一の講義は眠いねえ」


 美咲は眠そうにあくびをしたが、テンションはいつもと変わらず高いままで、かばんからチラシを取り出した。


「これ、今月の学食のメニュー予定表。なんかボルシチとかあるんだけど!」


 知佳にチラシを差し出そうとして、ハッとした美咲はその手を止めた。チラシの色がレモン色だったのだ。


「あっ、ごめん。つい……」


 確かに、一瞬ふらりとするような、立ちくらみのような感覚が知佳を襲った。


「ううん、大丈夫。もらっておくね」


 手にしたチラシを素早く畳んでかばんに押し込んだ。そして自分は大事なことを忘れていたのに気がついた。


 講義の間中、ずっと知佳はスマートフォンを見ていた。


 二十年前の記事。日付ははっきりと覚えていなかったが、自分の名前と事故に関する検索で、記事はすんなり見つかった。


 二十年前、市内で発生した交通事故。


 石黒知佳(当時二十九歳)が運転する乗用車が、道路へ飛び出した小学生をはね、そのまま電柱に衝突。


 石黒知佳は搬送先で死亡。


 女児は死亡が確認された。


 知佳は被疑者死亡のまま書類送検されていた。それ以上の情報は新聞記事からは得られなかった。


 記事を閉じても、指先は震えたままだった。


 車に乗ってマンションを出た知佳は、郊外の海へ続く道沿いにある崖から、そのまま車ごと飛び降りようと心に決めていた。


 だが自分は結局、事故死していた。この――詩歩の体に入ってしまったのは、契約の何かが狂ってしまったからなのだろうか。


 轢いてしまった子供の名前に目を落としながら、言いようのない不安が知佳の胸に広がっていった。




 

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