41 覚醒
小学校に上がったばかりの由衣は、暗がりが怖かった。
物心ついたころから父子家庭で育った由衣は、母親代わりでもある兄の不在が特に心細かったのだ。
兄とは二つしか離れていなかったが、八つにしてはしっかり者の兄は、由衣の面倒をよく見てくれた。今日だってもう帰ってきていてもおかしくない時刻のはずだった。
テーブルの上には、宿題のノートが開かれている。夕食のあとで、一緒に勉強するのは毎日のことだ。
――お兄ちゃん、傘を持ってないのかもしれない。
先ほどの雷で停電したあと、居間の電球が切れたらしかった。薄暗くなった家に一人でいるのが怖くなった由衣は、自分用の黄色い傘をさして外に出た。
少し歩けば大きな通りへ出る。そこには明るいコンビニがあるし、通学には必ずその前を通る。そこで待っていれば兄と会えるはず。
――あの角を曲がれば……。
「道路を渡るときは、左右を確認するんだぞ」
兄の言葉が頭をよぎった瞬間だった。
まぶしいライトと急ブレーキの音。それと同時に強い衝撃が由衣を襲った。
*
雨の夜道でも、黄色はとても目立っていた。だが、突然、角から現れた小さな傘は、ブレーキが到底間に合わない距離にあった。
驚きと恐怖。その目と、自分の目がかち合った気がする。
エアバッグに押しつけられたまま、知佳はそう思った。子供だった。まだとても小さい。
子供の様子を見たかったが、体はびくともしない。首だけを動かしたとき、知佳の視界に、バックミラーにぶら下がって揺れているキーホルダーが映った。ウサギのキーホルダー。あれは晴美が私に買ってきてくれたお土産だった。
――あんなもの、早く捨ててしまえばよかった。そう考えているうちに、意識は遠のいていった。
次に視界に入ったのは白い天井だった。天井の蛍光灯がひとつずつ流れていく。
知佳の体は小刻みに揺られているが、力が入らない。視線だけ動かすと周囲に人がいた。
誰かの声がした。
「分かりますか? お名前言えますか?」
冷静な声が知佳に問うた。その人を見ようとしたとき、視界の端に黄色が見えた。濡れた黄色に、赤が滲んでいる。
それが自分のスカートだと気付くのに時間がかかった。
「意識レベル、反応弱いです」
瞼が重くてもう目を開けていられなかった。
だんだんと声も、音も遠ざかっていった。代わりに一定の間隔で響く電子音だけが耳に残る。やがてその間隔が途切れ、長く引きずる電子音が静かに尾を引いた――。
*
カチッと二度、スイッチを押すような音がした。先ほどまでの電子音とは違う音だ。
体は柔らかい背もたれに支えられていた。開こうとした目に飛び込んでくる光が異常にまぶしい。知佳はゆっくりと目を瞬いた。
見慣れない部屋と観葉植物。横で人が動く気配がして、頭を動かすと痛みが走った。
「石黒さん、大丈夫ですか? ここがどこか分かりますか?」
知佳は、ハッとして体を起こそうとした。
「ここは――あの子供は? 私、私はどうして――」
知佳の横にいた女性は、知佳を落ち着かせようと肩に手を置いた。
「落ち着いてください。ゆっくり呼吸して。石黒さんは一時間も催眠状態にあって……異例な長さだったんです。水です、さあこれを飲んで」
女性はグラスに入った水を手渡した。水は心地よい冷たさで、体に活力が戻ってくるような感覚がした。
――催眠、状態だった?
「ここは……」
「ここは心療内科クリニックです。あなたは今、意識が混濁している状態にあるようです。お名前を言えますか?」
「私……私は石黒ち……」
大きなガラス窓に映る自分の顔が目に入った。
石黒知佳と喉元まで出かかった名前が、頭の奥から浮かんでくる記憶に押し出された。
石黒詩歩。
次の瞬間、何かが軋んだ。
その名前を思い出したのではない、思い出させられた。
自分の中のどこか別の場所が、知佳より先にその名を呟いた。
その気配がゆっくりと目を覚ますように動き出した。




